北条時頼とその時代 (1) | 中世史討論会

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なお、当ブログでは諸説あるもの含めて煩雑さを避けるため一つの説に拠っていますが、その辺もコメントしていけるとありがたいです。

 

北条時頼(1227年-1263年)は、第5代執権で得宗専制を確立した人物として知られています。いわゆる鎌倉幕府の全盛期に当たると思われますが、この時代にはどのような事件が起き、どのような人物が活躍したのか。考えていきたいと思います。

 

1.北条時頼の治世

北条時頼は、兄・経時の重症化を受けて20歳のとき1246年執権に就任します。時頼は病により1256年に執権を退きますが、病没まで得宗として実権は維持したとされ、1246年から1263年までの17年間を射程とします。年号としては、宝治・建長・康元・正嘉・正元・文応・弘長に当たります。

 

2.歴史上の事件

時頼治世下に起こった事件としては、時頼執権就任前後に起こった宮騒動及び宝治合戦があります。この事件により、北条氏に対抗できる御家人はいなくなり、得宗専制の準備が整ったと言えます。

 

3.鎌倉幕府将軍

宮騒動で第4代将軍・藤原頼経は追放され、その子・藤原頼嗣が第4代将軍(在任:1244年-1252年)となります。しかし、1252年には宝治合戦残党による謀反に父・頼経の関与が関係したとして頼嗣も追放。第6代将軍として、皇族より宗尊親王(在任:1252年-1266年)が迎えられます。

 

頼嗣は8歳で将軍となり、14歳で解任。18歳で亡くなっています。宗尊親王は11歳で将軍となり、時頼死去時には22歳でした。いずれも、得宗よりも年齢が若いということが分かります。

 

4.天皇

朝廷は比較的安定した時代と言えます。北条時頼の祖父・北条泰時の影響下で1242年に即位した後嵯峨天皇は、その崩御した1272年までの30年間にわたって朝廷を指導しました。後嵯峨天皇の在位は、1242年から1246年。後深草天皇に譲位した2か月後に北条時頼が執権に就任しています。後深草天皇の在位は、1246年から1260年。その弟・亀山天皇の在位は、1260年から1274年。

 

後嵯峨天皇は、院政開始時・執権就任時は26歳。後深草天皇は、同日に4歳で即位しています。亀山天皇は1249年生まれ。10歳で即位しています。なお、北条時頼は京都生まれですが、3歳のときに父・時氏とともに鎌倉に帰ったと思われるので、その後に上洛したことのない時頼は天皇に会ったことはなかったと思われます。

 

こちらを簡単に図示したのが、下記の画像になります。