なぜ工場を移転する必要があったのか?
年に何度かの超多忙な日々でした。
特にこの金曜と土曜と日曜は午前2時とか3時の帰宅でした。

次の日も朝早めに出社して!と。
さすがに日曜日は昼前まで寝てましたが夜半までのコース、
祝日は早朝3時に出勤しては工作機械のお守り。
現在の工場に移転する際に、
レンズ加工用の超精密加工領域(10ナノ制御)の工作機械を2台整理しました。
まだまだ使えるボールネジ機を廃棄して、
リニアモーター機だけを残しました。
リニアモーター駆動のMC4台。
リニアモーター駆動の非球面加工機(ダイヤモンド旋盤)2台。
現状では試作レンズのより高精度化を目指しているので、
ボールネジ機を処分するという判断になりました。(粗加工用は除きます)
上の画像の左下には今のところは三鷹光器のレンズ測定機を仮置きしていていますが、
次の高性能な工作機械を入れる為にスペースを計算して空けているのです。
「従業員の数や売り上げの規模の拡大で勝負する」
若い頃は私もそんな風に考えていましたが、
ちょうど拡大出来なかったのも不幸中の幸いで、
『小さい企業が小さい規模のままで業界で特化して飛び抜けて稼ぐ』
そんな風なビジネスモデルというか経営の意識になりました。
製造業が構造不況(平成不況とか)と言われてもう20年とか25年でしょうか?
その25年前なんかは、
町の中にある文字どおりの町工場が、
汎用機や償却の終わったNC工作機械での加工品の値崩れとか仕事薄が不況のネタだったのに、
今では郊外に最新の立派な工場を建設して、
NC工作機械を並べるられるだけ並べて、
最安値の仕事を奪い合うというような不況のネタに変化しています。
しかもそれらがすべて経営者1代では到底返せない借金が元手だったりするのが、
平成不況とは大きく違う所。
私は色々な製造業の経営の事例を見てきたつもりです。
ここに書いていたのは批判屋とか皮肉屋と揶揄されてもそれはすべて自分の為の貴重な情報と解析でした。
そして考えついたものづくり屋である私の経営者の終活として、
割と都会に近い便利な場所で(大阪市内に約500メートルの距離の東大阪市で場所で)
賃貸をヤメて自社所有の建物で(中古物件ですが内部留保金で購入しました)
無借金経営を理想として(今回は改装費と移転費用をBKから借りたので自己資本比率90%→50%台に…)
高性能な工作機械だけを揃えて(経年数の多いのもありますが、まぁそこはリニアモーター機なので)
少人数の枠で最大の売り上げを達成する。(適正価格のお仕事だけを請けられます)
そして加工現場は社長自らが率先垂範する。(加工技術の開拓は責任者である社長の仕事ですからね)
移転した建物は"昭和"ですが、
経営方法は"昭和"からかなり変化していると思います。
昭和の昔の時代では、
満六十歳ですでにフガフガのヨボヨボだったそうです。
磯野波平さんは54歳で当時の定年まであと1年弱だったとか。
でも、令和の六十歳は午前回っても仕事が出来るほど元気ですよ。
あっ、私はまだ還暦を迎えていませんけどね。
さて、もうすぐフガフガのはずの私がいつまで率先垂範が出来るのか?
ともかく今は数字を上げ続けて結果を残し続けるしかございません。
自分も頑張ります♪