・出典:ダイオキシン・環境ホルモン対策国民会議
・ニュースレター第117号
ダイオキシンと腸内細菌を繋ぐ化学物質センサー
埼玉県立がんセンター臨床腫瘍研究所客員研究員 川尻要
はじめに
芳香族炭化水素受容体(Aryl hydrocarbon Receptor: AhR)はベンゾピレンなどの発がん物質やダイオキシン類と結合する受容体で、発がんやダイオキシン類の毒性発現に重要な働きをしています*1。
最近の研究から AhR は生命活動に本質的な機能を持つことが明らかになり、腸内細菌*2と密接に関連することも指摘されています。
本ニュースでは AhR が「内・外」環境および腸内細菌との境界に位置してヒトの健康維持を担っており、その本質にダイオキシン類が介入して多様な疾患を発生させることを紹介します。
P450による異物代謝の限界性
ヒトはさまざまな刺激に応答しながら生存していますが、現代社会では薬物や農薬、添加物などの人工化学物質が刺激として重要な位置を占めています。
多くの化学物質は肝臓に存在する異物代謝酵素の働きで解毒されますが、これは20億年にも及ぶ生物の進化の中で、植物に存在している有毒化学物質から生命を守るための動物の生存戦略として P450*3と呼ばれるタンパク質が分子進化を重ねた末に獲得されたものです。
しかしながら、化学発がん物質と呼ばれる化学物質は P450によって代謝されて逆に活性化され、代謝産物ががん関連遺伝子に結合して遺伝子に変異が生じ、発がんに至ります。
また、ダイオキシン類はP450によって代謝されずに蓄積し、DNAとも結合しないことから、化学発がん物質とは異なったメカニズムで毒性が発現されます。
AhR の生物機能とダイオキシン毒性発現 「枯葉剤」*4やダイオキシン被曝*5の被害者からは多くの疾患が報告されていますが、毒性発現の全体像を理解するためにはAhR の本来的な働きを知る必要があります。
高等動物の AhR は、異物代謝酵素の誘導やダイオキシンの毒性発現以外にも免疫や発生、細胞の増殖や分化、発がん抑制など多彩な働きに関与しており、最近では動物の恒常性維持に重要な幹細胞制御の働きを持つことが注目されています*6。
分子生物学的な知見から以下のようなAhR の作用メカニズムが考えられています(図)。
① AhR は平時において細胞質に存在し、リガンドと呼ばれる低分子化学物質が結合すると活性化されて核内に移行する。
これらの物質は細胞や食餌に由来する代謝産物、腸内細菌の産生する化学物質などである。②核では AhR のパートナーで ARNT と呼ばれるタンパク質と結合し、異物応答配列(XRE)という固有なDNA 配列に結合して遺伝子の転写を誘導する。
③ XRE は多くの生命活動に重要な遺伝子に広範に存在し、AhR の多機能性を裏付けている。重要なことは、AhR は特定の時期に、適切なリガンドで、適切な遺伝子が適量発現されて正常な生物機能を示すようにプログラムされていますが、ダイオキシン類に被曝すると予定外で強力な遺伝子発現が長期に渡って引き起こされ、異常シグナルが情報ネットワークにもたらされて多様な疾患を引き起こすと考えられます*7。
AhR と免疫・腸内細菌
異物代謝と免疫はそれぞれ異物を排除して生体防御を構成しますが(図)、免疫に関与する多くの遺伝子にも XRE が存在し、AhR が重要な働きをしていることがわかってきました。
その働きは、①炎症抑制、②免疫細胞の分化、③病原菌感染防御として考えられます。
AhR は免疫促進と抑制という対照的な働きを有する免疫細胞への分化を制御し*8、分化の方向性はリガンドにより影響されて TCDD*9は免疫抑制へと誘導します。
また、AhR は腸内細菌で誘導され、緑黄色野菜の代謝産物や腸内細菌の産生物*10をリガンドとして利用して病原菌感染防御の働きを促進しています。
このように、AhR は代謝活動や腸内細菌の産生する化学物質を介して免疫能を制御していますが、経口的に取り込まれた環境汚染物質により免疫能が影響される可能性もあります。
おわりに
化学物質データベース*11には2015年までの50年間で1億件を超える化学物質が登録され、以後の50年間では6億件を超える新規化学物質が追加されると予測されています。
しかしながら、ダイオキシン類をはじめとする残留性有機汚染物質*12の存在は「生物学的な適応にも限界がある」ことを示すメッセージとして社会的にも強く認識されるべきではないでしょうか。
近年、過剰な 444抗生物質の使用で耐性菌の出現・拡散と、腸内細菌の多様性の喪失が指摘されて「抗生物質の冬」*13と呼ばれ、先進国で急増している自己免疫疾患、腸疾患、アレルギーなども腸内細菌の生態系の変化に起因するともいわれています*14。
『沈黙の春』*15と「抗生物質の冬」が同時進行する世界において、AhR は「内・外」環境および腸内細菌との境界に位置してさまざまなリガンドと結合し、多機能性化学物質センサーとして生体防御と恒常性維持という生命現象の中枢を制御しています。
ダイオキシン類はその本質に介入して多くの疾患を発生させ、「内なる生態系」の多様性の喪失はその産生物である AhRリガンドの質的・量的変化をもたらして免疫・腸疾患などの私たちの健康に大きな影響を与えることは容易に想像されます(図)。
研究の進展によってダイオキシン類の毒性の本質が明白になり、発生の初期にダイオキシン類に被曝することは生命・健康に取り返しのつかない状況を招きかねないことを認識する必要があります*16。
また、「東南アジアに輸出された廃プラが処理され、周辺住民の炎症性疾患が増加し、その廃液が日本向けの養殖エビの池に流れ込んでいる」という報道を聞くに及んで、ダイオキシン汚染に国境はないことが懸念されます。
私たちの社会はこれに限らず、ゲノム編集や「原発」の廃棄物処理など「いのち」に密接に関連し、「細分化」された特定分野の「専門家」だけでは解決できない多くの困難な問題に直面しています。分野と立場が異なる専門家・当事者・市民・行政を交えた自由な意見交換による合意形成とそれに基づく政策推進が求められます。