・出典:化学物質問題市民研究会
・ Undark 2016年6月24日
ジャーナリスティックな懐疑論の研究:携帯電話とがん
ラットにおける携帯電話の電磁波とがんの関連を見つけた研究はまさしく懐疑に覆われていたが、
記者は偏見にとらわれるべきではない。
ポール・レイバーン
情報源:Undark, June 24. 2016
A Study in Journalistic Skepticism: Cell Phones and Cancer
A study finding links between cell phone radiation and cancer in rats was
rightly covered with skepticism - but reporters should keep open minds.
By Paul Raeburn
http://undark.org/article/a-study-in-journalistic-skepticism-
cell-phones-and-cancer/?platform=hootsuite
訳:安間 武 (化学物質問題市民研究会)
http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/
掲載日:2016年7月23日
このページへのリンク:
http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/sick_school/emf/
160624_Undark_A_Study_in_Journalistic_Skepticism_Cell_Phones_and_Cancer.html
数週間前に、連邦政府の機関である国家毒性計画(NTP)は、携帯電話の電磁波は、あるラットがある腫瘍を発症するリスクを増大するかもしれないことを示唆するデータを発表した。
米・保健福祉省の管轄下にある国家毒性計画(NTP)は、高周波放射を受けた雄の実験ラットに二種類の腫瘍、脳の悪性神経膠腫(グリオーマ)と心臓の神経鞘腫(シュワン細胞腫)を引き起こすことを発見した。
彼らは、この新たな結果は現在進行中の研究の中の”部分的な研究結果”を示すものであると述べているが、政府の科学者らは、この結果はまた、”以前の携帯電話の電磁波に関する研究でこれらの同じ細胞が病変を示したので、特に興味深いものと考えられるべきである”と述べた。
この記事はその時、多くのメディアにより報道されたが、そのほとんどは慎重(cautious)であり、懐疑的であった。
ニューヨークタイムズの記事(Q&A)の中で、バイオテクノロジーの記者アンドリュー・ポーラックは、この研究は”この問題についての議論を再燃させる可能性がある”と述べた。
彼はこの新たな研究が携帯電話の電磁波がラットのがんリスクを増大させるように見えることを確かに認めたが、彼は次のように述べた。
”多くの警告があり、ある専門家らはこの研究を嘲笑している”。
他のニュース報道も同様に用心深い(wary)ものであった。
サイエンティフィック・アメリカン(一般向け科学雑誌)のアプローチは、ポーラック記者の、この研究は”発がん性に関する疑問を再燃させる”という記述をおうむ返しするものであった。
CNN(ケーブルテレビ向けニュース専門放送局)のオンライン報道は、”携帯電話の使用ががんを引き起こすかどうかという問題は混乱に陥っている”で始まった。
ウォールストリートジャーナル、コンシューマーリポート、タイム (雑誌) は全て、ラットにおける携帯電話とがんとの関連(link)について、それほど慎重ではなく(a bit less cautious)、合理的なアプローチの書きぶりであった。
(ここで重要な言葉は”関連(link)”であり、それは何かあるつながりを示唆するが、原因の示唆ではない。) ニューヨークマガジンは、”冷静に”と読者に告げ、読者らが冷静になるべき全ての理由を挙げる前に、レーガンばりに、”さあ、もう一度行こう”と書いた。
それは、必要以上に騒ぎたてない研究であり、その研究結果が発表されて以来、数週間でメディアの後報はほとんどなくなり、そのことは、多くの、恐らくほとんどの科学ジャーナリストはこの研究は更なる調査には値しないと考えていることを示唆していた。
ある点で、それは理解できるかもしれない。
携帯電話の電磁波とがんとの潜在的な関連についての長年の研究は、せいぜい、曖昧であることを示しており、そのような研究を報道してきた私を含む科学ジャーナリストたちは、新たな結果に対して慎重な(measured)アプローチをとることを身につけていた。
しかしそれにもかかわらず、この新たな携帯電話研究を断固として棄却することは、特に公衆がかつてなく、気候変動から CRISPR (クリスパー)(訳注1)にいたるまで、複雑な科学的問題について冷静な調査を必要としている時代には、ある潜在的な疑問を提起するように見える。
ジャーナリストたちは現在、疑い深くなり過ぎていないか?
彼らは慎重(cautious)になり過ぎ、すぐに同意や不同意を示すこと以上に価値があるかもしれない研究を詮索することに急ぎ過ぎていないか?
彼らは、デクラン・フェイヒ博士が数年前に示唆したように、科学についての我々の主導的な批評家になっていないか?