(3) メカニズムについての仮説 いままでの研究者が報告している中には、『過敏症とは化学物質への不耐の状態であり、そ れは神経の可塑性と関係があるのではないか』という議論があった(ANYAA9 933, 2001を 参照されたい)。
その中でわれわれ研究班に関連した内容としては、Sorg らが ppm オーダー の低濃度 FA 繰り返し曝露が化学ストレッサーになることを強く示唆したこと(同著 Part II pp: 57-67)、Gilbertが農薬への曝露によって辺縁系関連の行動が発現するまでの仮説を提唱 したことだった(同著 Part II pp: 68-91)。
では研究班の結果からどのようなメカニズムが考えられるだろうか。
市川らの嗅上皮と嗅 球における形態学の所見からは、マウスの脳ではかなり強い刺激として嗅覚が認識されてい ると解釈できる。
嗅覚情報の嗅球からの脳内投射部位は、扁桃体・梨状葉・嗅内野等など、 複数の脳内部位へと投射されている。
嗅内野とよばれる大脳皮質嗅内野にはさまざまな感覚 の情報が集約・統合されている。
その統合された神経情報は海馬へと入り、海馬から内側部 にある乳頭体・視床その他へと投射される。
FA 曝露マウスでは、嗅覚情報が嗅内野でさまざ まな感覚情報と集約・統合され、その集約・統合された情報(興奮性入力)が海馬内に入っ て増幅され、視床下部の神経活動をストレス反応へと変異させたのかもしれない。
一方、市 川らが形態変化を検討した扁桃体も、嗅球から直接入力を受け情動発現には重要な役割をす ると考えられている。
このように海馬を主とした中枢神経系内の複数部位が不安情動反応の 変化を生む機構と関連しているのではないだろうか。
FA 曝露によるストレス反応の亢進と不 安情動の発現はほかの研究でも示唆されている。
佐々木らの報告で視床下部のストレス反応 が亢進していることが明らかに示された。
したがって、実験結果から総合すると、不安情動 の亢進やストレス反応にかかわる機構が、過敏状態を引き起こす機構とメカニズムを共有し ている可能性が考えられる。
FA 曝露が、海馬等における神経情報処理機構をも撹乱し、過敏 状態になる機構と関連しているのではないかという解釈は、神経可塑性について議論した従 来の仮説(ANYAA9 933, 2001)とは矛盾しない。
MCSのメカニズムについては、患者の症状と実験データから大脳辺縁系の関与を示唆す る議論されてきた(Bell, 1994; Miller, 1994; Rossi, 1996; Bell et al., 1999; Sorg, 1999)。
さ まざまな仮説が提唱されており、なかでも Bell らは大脳辺縁系が関与するキンドリング仮説 (キンドリングとは、初めは何の変化も起こさないような弱い電気刺激を毎日 1回繰り返し脳 の辺縁系に与えることによってほぼ3週間後には同レベルの刺激でてんかん発作を起こす現 象をいう。キンドリング現象は化学物質の反復投与によっても起こるので、MCSにおける時 間依存的な感受性の亢進を説明する仮説として考えられている)を提唱している。
大脳辺縁系 キンドリングはてんかんのモデルのひとつである。しかし、FA 曝露によるてんかん発作は観察されていないし、また、疫学調査でもてんかん患者に MCS が多いという報告もない。
む しろ、てんかんと MCSの関係については現在のところ否定的である(Gilbert, ANYAA 9 933, 2001)。
しかし、Gilbertらは、てんかん発作の発現には至らないが辺縁系の興奮性の変化が、 MCSの発達と発現における不安情動の役割に関係しているのではないかと考察している。
わ れわれの実験結果で観察された海馬興奮性の増加・抑制の減弱は、はからずもこの Gilbert の推論を裏つけることとなったわけである。
しかし、動物キンドリングモデルでは通常シナ プス伝達増強現象が観察されている。
われわれの曝露実験結果では STP は低下、LTP は変化 なし(実験条件を変えると低下した)という結果であった。これは矛盾というよりは、『曝露 群の海馬 CA1 における CaMKII の恒常的活性の上昇が、シナプス伝達の可塑性を発現する 能力を頭打ちとした結果として障害した』と私達は考えている。
この点はキンドリングモデ ルと異なる。
(4) 平成16年度の新たな知見 4-1 横断研究 4年間の研究で変動する指標がみいだされた嗅球の TH ニューロンの増加(市川らの班) 、 脳下垂体の ACTH 発現量の増加(佐々木らの班)、海馬の神経伝達物質受容体発現量(藤巻 らの班)、嗅球の TH蛋白量解析、抑制の減弱を同一個体で調べることにした。
その結果、群 間で傾向が一致したのは、歯状回の抑制の減弱と興奮性シナプス伝達受容体のひとつである NMDA 受容体のサブタイプ構成比であった。
しかし、個体における相関は明らかにならなか った。