3.脳内海馬での情報処理変化の検討 本態性多種化学物質過敏状態と診断された患者共通の中枢神経症状として、頭痛・抑うつ・ 記憶困難・集中力低下・いらいら感・不安などが以前より報告されている。本課題における マウスでの行動試験においても、ホルムアルデヒド(FA)長期曝露は不安情動を増強し、回 避学習を促進した。
FA 曝露は一般活動性、空間学習機能、侵害受容には影響しないことから、 動物実験においても情動に関する脳機能への影響が示唆された。
不安情動には大脳辺縁系のなかの海馬が主に関与すると考えられている。
われわれは 2000 ppb 濃度における FA 曝露動物海馬における形態学的な変化がないことを確認した。
FA 曝露し たマウス海馬においては、歯状回で興奮性が亢進し、フィードバック抑制は海馬 CA1 と歯状 回で減弱した。
この抑制の減弱は抑制性シナプス伝達物質γ?アミノ酪酸(GABA)の合成酵素で あるアミノ酸脱炭酸酵素(GAD)のサブタイプ GAD67 の低下と一致し、興奮と抑制の撹乱が伝達 物質合成レベルでおきていることが示唆された。
400 ppb からフィードバック抑制の低下傾 向がみられた。
シナプス伝達の可塑性については、短期増強(STP)は減弱したが長期増強 (LTP)・長期抑圧(LTD)は変化しなかった。
が、スライスの実験条件を変えると LTP の低下 が観察された。
条件を修正して測定した LTP の低下については、80、400 ppb でも観察され た。
海馬 CA1 領野においては、シナプス伝達の可塑性と関連している Ca2+/カルモデュリン依 存性プロテインキナーゼ II (CaMKII) αおよびβアイソフォームの自己リン酸化反応が亢進しており、恒常的活性の上昇がシナプス可塑性を発現する能力を頭打ちとした結果として障害 したと考えられる。
曝露モデルにおけるこれらの変化にたいするアレルギーの関与については、400 ppb 濃度 でFA曝露されたアレルギーモデルでのLTPや炎症性サイトカインの発現変動の解析結果から は明らかにはならなかった。
一方、海馬以外の部位での変化としては、曝露群の大脳皮質で も副腎皮質刺激ホルモンや増殖因子活性化プロテインキナーゼ(ERK)の増加がみられたこと から大脳辺縁系以外への FA 曝露の影響も示唆された。
FA 曝露マウスでは、嗅覚情報が嗅内野でさまざまな感覚情報と集約・統合され、その情報 (興奮性入力)が海馬内に入って増幅され、視床下部の神経活動をストレス反応へと変異さ せたと考えられる。
さらに中枢神経系内のストレス軸の変移が情動反応の亢進と関連してい ることが示唆された。
4.低濃度長期ホルムアルデヒド及びトルエン曝露の免疫系、及び神経―免疫軸への影響に ついての検討 (4.1)獲得免疫系、及び神経―免疫軸への影響についての検討 化学物質の曝露による過敏状態とアレルギー性炎症モデルの反応との違いについて明らか にするために、ホルムアルデヒドのみの曝露群と抗原を腹腔内投与とエアロゾルで感作しな がらホルムアルデヒドを曝露した群における免疫応答を比較検討した。
その結果、吸入抗原 感作を行うアレルギー性炎症モデルでは2000ppbホルムアルデヒド曝露による肺への炎症性 細胞の集積や400と2000ppb曝露による脾臓細胞からのケモカイン産生の増加がみられたが、 Th2タイプのサイトカイン産生やIgE抗体価における増強は認めなかった。
一方、脳内のサイ トカイン量について下垂体、海馬、線条体での測定においては、炎症性のサイトカインレベ ルで顕著な差はみられなかったが、神経栄養因子であるNGFにおいては海馬で400ppb曝露によ る増加が認められた。
さらに、海馬におけるNGF mRNAの発現の増強は低濃度において顕著 であり、蛋白レベルの結果と合致した。
免疫組織化学的検索でも、海馬においてNGF陽性反応 の顕著な増強が確認できた。
血漿中と肺胞洗浄液では、脳内とは逆に、ホルムアルデヒド曝露 によるNGFの有意な低下が認められた。
次に、神経伝達物質受容体の遺伝子発現量の変化を調 べるために、海馬及び扁桃体のNMDA型グルタミン酸受容体(ε1, ε2mRNA)、ドーパミン受容 体(D1, D2, mRNA)のmRNA発現量を半定量的PCR法により測定した。海馬において、ホルム アルデヒド曝露によりε1、ε2の変動が認められ、またD1、D2の増加傾向もみられた。扁桃 体では、ε1、ε2、D1の増加が認められた。
海馬においてε1、ε2の構成が変化したことは、 記憶形成機構に変化が生じた可能性を示唆しており、また扁桃体における遺伝子発現量の増 加は、情動機能の変化の可能性を示唆している。 トルエン曝露では、抗体価と神経伝達物質受容体の遺伝子発現でホルムアルデヒドとは異 なる反応がみられた。 これまでのまとめとして、ホルムアルデヒド曝露のみでは蛋白の発現の変動がみられない 低い濃度でも、免疫系への抗原刺激が加わることにより脳内での神経伝達物質分子の動きが 誘導されることが明らかとなり、過敏状態に繋がる可能性が示唆された。
(4.2)ホルムアルデヒド曝露とアレルギー反応に関わる肥満細胞機能との関連 ホルムアルデヒド曝露と抗原の吸入感作によるアレルギー性炎症モデルにおいてもっとも 顕著にくしゃみの増加が観察された。
そこで、肥満細胞が関与する可能性について解析する ために、肥満細胞欠損マウス(WBB6F1-W/Wv)とその正常対照マウス(WBB6F1-+/+)を用いて、ホ ルムアルデヒド曝露により誘導される炎症性反応について比較検討した。
その結果、皮膚の 炎症病変やリンパ球分画について変化は認めなかった。
肺胞洗浄液中への炎症性細胞の集積 においては、W/Wv マウスと+/+マウスでホルムアルデヒド曝露による違いが認められたが、 両マウス間でサイトカイン産生、及び血漿中の抗体価において差異は認められなかった。こ れらの結果から、今回のホルムアルデヒド曝露条件下では、免疫―神経軸における影響に肥 満細胞の関与は少ないと推察された。