第2章 マウスを用いた動物モデルに関する研究
Ⅰ.動物モデル研究の概要
MCSはある種の有害化学物質を低濃度で長期にわたり曝露することにより神経系が過敏な 状態になり、それに伴って免疫系や内分泌系にも異常状態を引き起こすことがその発症に関 与している可能性があると考えられている。
化学物質として過敏状態の誘導に関与している 可能性の高いホルムアルデヒドをとりあげ、まず単一の低濃度曝露を行って過敏状態の指標 になりえるものを探るために神経―免疫―内分泌軸に関与する分野での検討を始めた。
初年 度は、実験動物の選択、曝露濃度、曝露期間、影響指標の選択を行い、2年度以降は本格的 な実験に取り組んだ。実験動物としてC3Hマウスを用い、0, 80, 400, 2000ppbホルムアルデ ヒドの低濃度3ヶ月曝露を行い以下の結果を得た。
低濃度ホルムアルデヒド曝露による脳神経-内分泌-免疫軸それぞれのエンドポイントに おける過敏状態の発現の有無について明らかにするとともに、嗅球-海馬間での情報伝達系 への影響をより深く分子レベルで検討した。
また、抗原の経気道投与によりアレルギー性炎 症を誘導する疾患動物モデルを用いて、その炎症反応と過敏状態との関連についても検索し た。
さらに、動物モデルでのホルムアルデヒド曝露による過敏状態の誘導を支持する指標に よる化学物質の特異性との関連、およびその過敏状態とアレルギー反応との相違について検 索した。 平成16年度は、動物モデルでの研究目的である“低濃度ホルムアルデヒド、あるいはト ルエン曝露によりアレルギー学的反応とも、中毒学的反応とも異なる過敏状態の誘導が見ら れたか否か”ということについてこれまでの研究成果を総括する。
その中で、毒性影響を評 価するための量―反応関係が、マウス嗅覚系の形態学的解析、視床下部-下垂体-副腎軸の 変化、脳内海馬での情報処理変化、及び行動毒性における影響において新たに本研究で見つ けられたエンドポイントで見られたか否か、また、中毒学的反応と異なるときにどのような メカニズムが考えられるかについてまとめた。更に、免疫系への影響では、低濃度ホルムアルデヒド、あるいはトルエン曝露により従来の Th1/Th2 バランスの偏り、IgE 抗体産生、肥 満細胞の活性化などアレルギー反応としてみられてきた反応がどのように修飾されたのか、 その相違点に重点を置いてまとめを行った。
1.低濃度のホルムアルデヒドに長期曝露されたマウス嗅球系の形態学的解析 化学物質の低濃度長期曝露によって、嗅覚系ニューロンに与える影響を調べるため、ホル ムアルデヒド(0,80,400,2000ppb)に 3ヶ月間持続的に曝露したマウスの嗅覚系を形態学 的に解析した。
嗅上皮を観察した結果、2000ppb のグループで一部変性過程を示すものもあるが、全体と しては軽微なものであり、機能的障害を起こしていると考えにくい。
嗅球ニューロンへの解析をドーパミン合成酵素の TH に対する抗体を用いて、嗅球糸球体で おこなった。
この結果、0ppb に比べて曝露群で陽性ニューロンの数が多くなることが見い だされた。嗅球におけるドーパミンニューロンの機能は明らかでないが、刺激依存的に増加 し嗅覚情報を調節していると考えられる。さらにドーパミンニューロンに加えて、嗅球の外叢状層のニューロンの解析をおこなった。この解析のために、Ca2+結合タンパク質の抗体を 用いて解析した。
嗅球外叢状層に存在する Parvalbumin 陽性の GABA ニューロンの数が、曝露 群で増加する傾向が見いだされた。
Calbindin 陽性ニューロンでは差は認められなかった。
嗅球からは大脳辺縁系の扁桃体皮質核および梨状葉皮質へ投射する、そこでこれらの部位 のニューロンへの影響を解析した。
大脳辺縁系の Ca2+結合タンパク質含有ニューロンは GABA ニューロンであることが知られている。そこで、Ca2+結合タンパク質の抗体を用いて免疫細 胞化学的に解析した。
扁桃体皮質核で Ca2+結合タンパク質のうち Parvalbumin および Calbindin 陽性ニューロンが曝露群で多くなる傾向が認められた。
したがって、ホルムアル デヒド曝露により GABA ニューロンの活動が高まっていることが示唆される。
梨状葉皮質では、 曝露群で顕著な差は認められなかった。
以上をまとめると、嗅球のドーパミンニューロンおよび大脳辺縁系扁桃体の Ca2+結合タン パク質 Parvalbumin および Calbindin 含有ニューロンが低濃度ホルムアルデヒド長期曝露群 で増加している結果を得た。
これらのニューロンは GABA を神経伝達物質とする抑制性の機能 を有する。
持続的にホルムアルデヒド刺激が嗅覚系に入力するため、これを抑制する必要か ら、抑制性ニューロンの活動が高まり、この結果、共存するドーパミンや Ca2+結合タンパク 質の発現も増加し、この免疫陽性ニューロン数も増加したものと思われる。
抑制性ニューロ ンの活動の増強が動物の脳にどのような影響を与えているか推測の域を出ないが、ホルムア ルデヒドの持続的な刺激を解除するような脳内メカニズムが働いていると考えられる。
2.ホルムアルデヒド及びトルエンの長期曝露が視床下部―下垂体―副腎軸に及ぼす影響 視床下部―下垂体―副腎(HPA)軸はストレスに対応する軸であるので、低濃度ホルムアル デヒドとトルエンの長期曝露が視床下部室旁核の副腎皮質刺激ホルモン放出ホルモン(CRH) 神経細胞と下垂体の副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)細胞にどのような影響を与えるかを免疫 組織学的方法、計量計測学的方法、半定量的 RT-PCR 法により解析した。
又、MCS に罹患し た患者の多くは、アレルギーを発症している女性である事から卵白アルブミン(OVA)を前処 置して作成したアレルギー発症のメスマウスを用いた。
更に、アレルギーを発症しないトル エンを前処置したマウスを用いて、OVA 前処置で発症したアレルギーの意義を解析した。
マウスをホルムアルデヒド曝露群(A 群)、アレルギー発症群(B群)、トルエン前処置群(C群) と低濃度トルエン曝露群(D 群)の 4 群に分類した。A 群は非アレルギー(OVA-)マウス で、0ppb(対照群) 、80ppb、400ppb、2000ppb 濃度のホルムアルデヒドを12週間曝露し た。
B 群はアレルギー(OVA+)マウスで、ホルムアルデヒド曝露前に抗原として 10μg/マ ウス濃度の卵白アルブミン(OVA)と 2mg alum を腹腔に投与し、以降 3 週間ごとに OVA を腹腔に投与した。ホルムアルデヒド曝露は、A 群同様に行った。
C 群では、500ppm のト ルエンを 3日間経気道曝露後、A郡同様の処理を行った。
D群は(OVA-)マウスと(OVA+) マウスに 0ppm か 50ppm のトルエンを 12 週間曝露した。
A 群(OVA-)マウスの CRH-免疫陽性(ir)神経細胞数、下垂体の ACTH-ir 細胞出現率と 数並びに下垂体の ACTH-mRNA の発現量はホルムアルデヒド曝露量依存的に増加した。
B 群(OVA+)マウス対照群の CRH-ir 神経細胞数、下垂体の ACTH-ir 細胞出現率と数並びに
下垂体の ACTH-mRNA の発現量は、A 群(OVA-)マウスの対照群のものよりそれぞれ有 意的に増加していた。
B 群 80ppb ホルムアルデヒド曝露マウスの CRH-ir ニューロン数、 ACTH-ir細胞の出現率と数並びに ACTH-mRNA の発現量は、 A 群の 2000ppb曝露マウスの 値までさらに増加した。
しかし、400ppb と 2000ppb 曝露マウスのこれらの値は減少した。
C 群の CRH-ir 神経細胞数、ACTH-ir 細胞の出現率と数並びに ACTH-mRNA の発現量は、 ホルマリン曝露量依存的に増加した。D 群の(-OVA)マウスでは、対照群の CRH-ir 神経 細胞数、ACTH-ir 細胞の出現率と数並びに ACTH-mRNA の発現量と比較してトルエン曝露 群で増加していた。
(OVA+)トルエン曝露群の CRH-ir 神経細胞数、ACTH-ir 細胞の出現率と数並びに ACTH-mRNA の発現量は、 (OVA+)対照群に比べて増加していた。
A 群と D 群では、ホルムアルデヒドとトルエンがそれぞれストレッサーとして HPA 軸に 作用していることを示した。
一方、B 群では高濃度(2000ppm)ホルムアルデヒド曝露により HPA 軸が障害を受けていた。
このことから、シックハウス症候群において、アレルギーとホ ルムアルデヒドの2つのストレスの相乗作用で HPA 軸が損傷を受け、更なるストレス(腹痛、 頭痛など)を処理できない状態になっていると推察することが可能である。
アレルギー発症モデル B群とトルエン前処理した C群の結果は、アレルギー性炎症は、ホ ルムアルデヒド曝露に対する HPA 軸の反応に悪影響を与えるが、アレルギー炎症を発現しな いトルエン前処置ではなんらの影響も与えていないことを示唆した。
このような5年間の結果を総合して、本実験系は MCS あるいはシックハウス症候群のモ デルマウスとして適切であると思われる。