・2 わが国の法制度と被害救済の問題点
(1) 現行規制法の概要
化学物質の審査および製造等の規制に関する法律(化審法)は、カネミ油症事件をきっかけに1973年に成立し、86年に大改正された法律で、世界に先駆けて化学物質の事前審査・製造規制を取り入れた当時としては画期的な法律であった。
化審法は化学物質を73年以前から製造・輸入されていた既存物質と、それ以後に製造・輸入される新規物質とに分け、新規物質については、蓄積性、分解性、長期毒性のスクリーニングデータを付けて届出を行う義務を課している。
難分解性、蓄積性、長期毒性がある物質については第一種特定化学物質に指定され、製造・輸入が原則的に禁止される(PCBなど13種類)。
高蓄積性は有しないが、難分解性と長期毒性を有し、かつ環境汚染により人の健康に係る被害を生ずるおそれがあると認められる化学物質は、第二種特定化学物質とされ、製造、輸入に制限を課することができる(トリクロロエチレンなど23物質)。
2003年の改正によって、第一種から第三種までの監視化学物質が設けられたほか、動植物への毒性に関する事前審査が導入された。
なお、化学物質のうち、農薬については農薬取締法、医薬品や医薬部外品については薬事法、食品添加物等については食品衛生法が適用され、化審法の規制が原則として及ばない。
また、使用、廃棄段階では、大気汚染防止法、水質汚濁防止法、特定化学物質の環境への排出量の把握等及び管理の改善の促進に関する法律(PRTR法)、廃棄物の処理及び清掃に関する法律(廃棄物処理法)が適用される。
(2) 現行法の主な問題点
① 進まない既存物質の安全性点検
化審法制定時に適用除外とされた約2万種の既存物質については、国会の附帯決議に基づき国が安全性点検を行っているが、この30年間で毒性チェックが行われた物質は200余にすぎず、データ収集は遅々として進んでいない。
世界的にも、約10万種の化学物質のうち、毒性データが整備されているものはせいぜい数百種である。
この進行速度では来世紀を迎えても点検作業は終了しないことになりかねない。
② 科学的証明主義に基づく個別物質規制という手法の問題点
化審法の規制は、科学的確実性をもって毒性が証明された化学物質に対して、個別に規制措置を講じるという仕組みであるが、科学的情報が圧倒的に不足している現状に鑑みると、この手法では、情報集積を待つ間に、健康被害や生態系破壊が生じてしまうという取り返しのつかない事態を防ぐことはできない。
また、現在の科学では、多種多様な微量の化学物質の複合的影響の解明はほとんど進んでおらず、また、非意図的に生成される物質など未知の物質も決して少なくない。こうした状況を勘案すると、個別物質ごとのリスク評価とそれに基づく規制という手法では限界があることは明らかである。
③ 縦割りの規制
現行の化学物質の法制度は、用途別・領域別の縦割り規制の典型となっている。
このため、規制に空隙が生じかねない。
また、化学物質によるリスク評価や規制は、生産、使用、廃棄までの商品のライフサイクル全体をとらえて行われるべきであるが、現行の縦割り行政では限界がある。
(3) 被害に対する司法的救済の限界と新たな被害救済制度の必要性
化学物質による被害については、①暴露した化学物質の特定、②その毒性、③暴露量と暴露経路、④特定の症状の発症(病像論)、⑤暴露と発症との因果関係の立証などが必要である。
しかし、暴露から発症までに場合によっては数十年もの時間経過があり、物質の特定や暴露の立証は容易ではない。
仮に、物質が特定できたとしても、その毒性については不明なことも多く、複数の化学物質による複合汚染となると科学情報は著しく不足している。
水俣病などにおいて争われたように、化学物質による疾病そのものが新しい現象であるため、病像についても明確な基準を打ち立てることは困難であり、逆にそのような基準が切り捨ての基準となる場合も多い。
何よりも、暴露と発症との因果関係の立証はきわめて困難である。
このように化学物質による健康被害への事後的な損害賠償による救済には、多大な困難が伴う。
加害責任の追求の重要性は今日においても何ら変わらないが、さまざまな症状や生活に苦しむ被害者の人権擁護のためには、汚染者責任に基づく賠償原理とは別の被害救済制度を、事案に応じて創設したり、整備する必要性がある。
3 国際的動向
(1) 化学汚染のない環境において生活する権利
2001年4月、国連人権委員会は、「化学汚染のない環境において生活する権利は基本的人権のひとつである」との見解を表明した。これは化学汚染と人権を結びつけた初の声明である。
http://www.unep.org/Documents/Default.asp?DocumentlD=197&ArticlelD=2819
2001年5月には、DDT、PCBなどの有害物質の製造使用を規制するストックホルム条約が採択された。さらに、2002年9月のヨハネスブルグ・サミット行動計画では、「2020年までに人の健康と環境に対する有害影響を最小にできるような使用・生産方法を達成する」という目標が掲げられた。
このように化学汚染のない環境において生活する権利という概念が、21世紀になって新たに定着しつつある。
(2) スウェーデンの国家政策
スウェーデンは1999年、15の環境政策目標を掲げる環境政策目標法を制定した。この国家目標には、「毒物のない環境」が含まれ、1世代25年以内に「人類が生産したか、あるいは採掘されたか、いずれにせよ、人間の健康や生物の多様性を脅かす恐れのある物質や金属は、長期的に環境からなくす」ことを達成しようとしている。
具体的には、化学薬品検査院は2000年に「有害性のない商品」政策において、①2010年までに既存物質を含めた使用されるすべての化学物質についての健康と環境に関する情報を把握、②2007年から、発がん性物質、遺伝子・生殖機能に有害な影響を与える化学物質の一般消費者向け商品への含有禁止、③難分解性、高蓄積性を特に強く有する物質についての2010年からの商品含有の禁止、④その他の難分解性、生態系に蓄積される物質について2015年からの商品含有の禁止を打ち出している。
(3) EUにおける新しい化学物質政策
1992年6月、国連環境開発会議リオ宣言(アジェンダ21)は、「環境を保護するために、各国はその能力に応じて予防的措置を広く採用しなければならない。重大なあるいは不可逆的(回復不能)な被害のおそれがある場合には、十分なる科学的確実性の欠如を理由に費用対効果の高い環境悪化防止策が先延ばしにされてはならない。」と述べた。
欧州共同体委員会は、リオ宣言の予防原則をさらに発展させ、2000年2月2日、「予防原則に関する委員会からの文書」(COM(2000)1)を公表した。委員会は、「科学的証拠が不十分であったり、決定的でなかったり、又は不確実である場合で、予備的な客観的科学的評価によれば、環境、人、動物または植物の健康に与える潜在的に危険な影響が、EUで 選択された高い保護の水準と一致しない可能性があるという懸念に合理的な理由があることを示している場合」に予防原則が適用されるとする。
EUは、この予防原則の考え方を取り入れ、今年5月、REACHシステムという新しい化学物質規制案を公表した。
このシステムは、①年間1トン以上の生産・輸入のある物質については、約3万種類の既存物質を含めて、3~11年間をかけて産業側が一定の毒性データを収集して当局に登録すべきこと、②物質の安全性評価を産業側が行い、その内容を当局が評価判定すること、③一定の類型に入る高懸念物質については原則として生産・輸入が禁止され、例外的に用途や期限を制限して認可されることなどを定める画期的なものである。
仮にこの新政策が実現されると、化学物質の安全性のデータ収集と立証責任は産業側に転換され、また、科学的に毒性が立証されていない物質であっても、高懸念物質のカテゴリーに分類されれば、使用が禁止・制限されたり、代替品への転換が促進されていくことになる。