・ 6.3 神経学的機序
6.3.1 嗅覚-大脳辺縁系
ベル(1992)と彼の同僚らは、嗅覚神経、大脳辺縁系(感情と行動を制御する脳中枢)、及び視床下部(器官機能の自律神経と内分泌を制御する脳中枢)の間の相互作用に関する仮説に関連するほとんどの研究を支持している。
我々の生理学的反応、認識に基づく反応、そして行動的反応は、このシステムに統合され、それはまた免疫反応とホルモンと自立神経制御系を支配するものである。
大脳辺縁系への影響は身体のほとんどの機能と全ての器官に変化を生じさせることができ、それはMCSの症状に対応する。
ベルは、化学物質が嗅覚神経を通って脳に直接つながる神経系にどのようにして入り込むことができるかについて述べている。
通常は脳を囲んでいるいわゆる血液脳関門がその侵入経路を巧みに回避している。
しかし、ラットの実験で、ある物質が鼻の神経線維から嗅覚神経の脳への入り口の地点(嗅球)及び更なる脳の他の部分に運ばれることを示している。
この移動の機序は人間には見られないが、高濃度のマンガンを吸入したラットには見られた(Brenneman, 2000)。
この接近の方法は、感作理論の出発点として、いかに化学物質が脳中の大脳辺縁系構造に到達するかを説明しているかも知れない。
神経感作(神経組織の感作)
大脳辺縁系は、”小脳扁桃”、”脳幹神経節”、”隔壁”、及び、”海馬状隆起”を含むいくつかの構造からなり、これらの全ては脳幹にある。
動物実験では、小脳扁桃は比較的容易に過敏になり得ることを示している(Antelman, 1994)。
この文脈における感作(Sensitisation)は同じ物質に繰り返して曝露すると、通常は反応を全く示さないような濃度で有機体における増大した反応を生成する。
神経感作はキンドリング (Kindling)及び非キンドリングの機序を伴うことがある。
キンドリングは、外部刺激に対する神経系の反応の変化を検出することを目的とする実験方法である。
通常は反応を引き起こさない非常に低濃度/低用量での化学的又は電気的な反復刺激が、痙攣を引き起こす濃度又は用量の閾値を低めることがある。
非キンドリング刺激は、長期間の化学的/非化学的反復刺激に対する動物の反応を徐々に増大する。
反応は神経化学的、免疫学的、ホルモン的又は行動的である(Bell, 1997b)。
神経感作における両方の機序は、なぜMCSの患者がいくつかの器官で症状を訴えるかについての理論的説明を証拠立てている(Bell, 1995)。
ベル(1997a)によれば、感作機序は、例えば、その出発点が同じく大脳辺縁系である条件反射の機序とは異なる。
しかし、彼女は両方の機序はMCSの機序を説明するのに役に立つかも知れないと示唆している。
いくつかの研究グループは、動物実験を通じて神経感作機序を確認した(Sorg, 1994; Sorg, 1995; Bell, 1997c)。
ギルバートは長期間、低濃度のリンデン(殺虫剤)に曝露させたラットの電気的脳活動の変化と癲癇様発作を観察したが、一方、リンデンをまとめて一回で累積用量を受けたラットには何も起こらなかった(Gilbert, 1995)。
他の動物実験が、例えば化学的刺激に対する反応性が部分的には遺伝子に基づくことがあり得るという仮説を支えている。
追加的な神経受容体と有機燐系殺虫剤、ジイソプロピレンフッ素リン酸塩(殺虫剤)へのより大きな過敏性をもった特別な緊張を与えられたラット(“Flinders sensitive Line rats”) は、うつ状の人間のそれによく似た行動変化を示した(Overstreet, 1996)。
実験的な調査により、血液脳関門の存在で脳の中に入ることができない薬剤が、実験動物がストレスに曝されると、脳に入り込むということが示された(Friedmann, 1996)。
この観察は神経感作仮説を支持することができる。
物質がストレス状態にあるときに脳に入り込むことができたということは外傷性経験(トラウマ)がMCSに寄与する又は引き金となることがあり得るということを示している。
ベルと同僚らは非常に発達した嗅覚と大脳辺縁系の機能障害との間の関連性を見出した。これは、正常な学生に比べて匂いに対する感受性が高い(悪臭症 cacosmia)学生のグループの中で物質濫用、不安やうつような、心理学的障害が増大していることによって説明される(Bell, 1996a)。
記憶障害や神経生理学的テスト中の長引く反応時間などのような他の症状は、また、大脳辺縁系を通じても引き起こされているかも知れず、湾岸戦争帰還兵及び化学物質不耐性の人々にもそれぞれ見られる(Bell, 1996b; Bell, 1997c)。
MCSとぜん息をもつ2つのグループ及びコントローグループに対し、神経心理学の手法を用いて神経感作理論をテストする調査が行われた。
MCS患者は他の2つのグループに比べて大きな認識障害を持つとするベルの理論の確証は得られなかった(Brown-DeGagne, 1999)。
6.3.2 神経性機序に関連する他の機序
アーネッツのMCS統合モデル
アーネッツは神経感作理論に基づくひとつのモデルを提案しており、それは合理的な共同の取り組みで研究されている。
この概念は大脳辺縁系の感作は反応のパターンに変化を生じ、それは客観的な基準によって測定できるという仮定に基づいている。生理学的及び心理学的要素の両方がこの感作をもたらし得る(Arnetz, 1999)。
事象の最初の段階は初期曝露であり、それは可逆的、すなわち、曝露した人は回復する、または、非可逆的、すなわち大脳辺縁系は感作され、その人も感作される。
ひとつ又は複数の化学物質が嗅覚大脳辺縁系を通過すると仮定するベルとは対照的に、アーネッツは他のタイプの第一段階が大脳辺縁系の感作を引き起こすと考えている。
これらは、例えば、強い心理学的ストレス、又は外傷後ストレス障害(posttraumatic stress disorder, PTSD)があり得る。
感作された大脳辺縁系は、広い範囲の影響を引き起こす原因、すなわち化学物質や匂いだけではなく騒音、電磁界、等にも反応する。
アーネッツは、神経生理学的、神経内分泌、及び内分泌パラメータの変化として増大した大脳辺縁系感作及び反応性を文書化することができると期待した。
アーネッツの理論はジョーゲリス(1999)によって、スウェーデンのMCSを持つ及び持たない家屋塗装工に関する調査で使用された。
MCSではない塗装工に比べてMCSの塗装工は心地よい匂いを非常に不快な匂いと感じ、ストレス、不安、対人能力の減少があった。
MCSのグループはまた、皮膚及び粘膜からの著しい症状があり、コントロール・グループより疲れやすかった。
このことはMCSを持つ塗装工に見られる変化は大脳辺縁系の反応のためであるということを暗示している。
しかし、誘発された時の不確実性と被害を受けるのではないかという恐れが、ストレスの主な原因となり得る。
6.3.3 脳の機能の変化
脳の機能を検査する脳波(EEGs)及び全ての現代的な電子技術 (brain electrical activity mapping (BEAM), positron emission tomography (PET), single photon emission computed tomography (SPECT)) がMCSの人たちを調べるために用いられている。
言及されている調査のいくつかは変化を示したが、メイバーグ(1994)は、調査の全ては、技術的機器の標準化の欠如、再現性の管理不在、コントロール・グループの不在など、方法論的な誤りがあるので無効であり、これらの変化は最終的な証明ではないと結論付けた。
ハウザー(1994)は、殺虫剤又は有機溶剤に曝露した人の脳のを通る血流は、そのような曝露経験のない人、鬱の人、慢性疲労症候群の人のものとは異なるパターンを持っていることを示した。
残念ながら、曝露とMCSの基準に関する情報が欠如しているので、報告された発見の重要さは弱められている。
ローリグ(1994)は低濃度の匂いは正常な人の脳波に変化をもたらすということを示したが、それは脳に与える影響を間接的に客観的に示すものである。これらの調査はMCSの生物学的指標の発見に向けての第一歩であり得る。従って、他の人たちもこれらを調べるべきである。