リスクの回避と便利さのどちらを優先すべきかは、難しい選択だ。自分の体内にどんな化学物質があるのかを調べてみれば、この問題を考える糸口になりそうだ。
だがそのために私は、知らないほうがよかったことまで知る羽目になった。
血液検査で見つかった難燃剤の成分は、いったいどこから私の体内に入りこんだのか。
この謎を解こうとベリマン博士は、電話の向こう側のストックホルムから、私を質問攻めにした。
最近、家具か敷物を新調したことは? デスクトップ・パソコンの前で長時間過ごすか? 家の近くに化学工場がないか?--どれも身に覚えがない。
そのうちに、ふと思いついて、「飛行機は関係ありますか」と聞いてみた。
「なるほど、よく乗るんですか?」「ええ、去年なんかマイレージが20万マイル近くもたまりましたよ」
ベリマン博士は、航空機内のPBDEが人体に与える影響にかねてから関心があったという。安全基準を満たすために、航空機の内装に使うプラスチックや布には難燃剤がたっぷり含まれている。
「乗務員の体内の、PBDE濃度を調べてみたいと思っていたところなんです」
今のところ、PBDEと飛行機の関連は推測にすぎない。こんな物質のことなど、検査を受けるまで聞いたこともなかった。
いったいどこで体に入りこんだのか。もっと気になるのは、その値が高いと何か問題があるのかどうかだ。
もちろん、ほかの化学物質も心配だ。水銀、PCB、そしてベトナム戦争で使われた枯れ葉剤の成分として悪名高いダイオキシン類……身近な化学物質のなかには、人間の体内に大量にとりこまれると恐ろしい影響をもたらすものもある。
だが、ごく微量の化学物質が体内に入ったからといって、たいした影響はないはずだ。
化学業界の御用学者に限らず、このように考える毒物学者もかなりいる。
たしかに、水銀などの有毒物質でも、繰り返しその物質にさらされないかぎり、数日から数週間で体外に排出される場合もある。
それでも、統計上はここ数十年で人々の健康状態は多くの点で改善しているのに、原因不明のまま増えている病気がいくつかある。
米国では1980年代前半から90年代後半に自閉症の患者数が10倍になり、70年代前半から90年代半ばにかけては、男児の先天異常が2倍になり、ある種の白血病が62%増え、小児の脳腫瘍が40%増えている。
食品や水、大気中などに存在する人工の化学物質との関係を疑う専門家もいるが、確かな証拠は乏しい。
しかし年月とともに、当初は無害とされていた物質による被害が表面化し、安全説がくつがえされる例が相次いでいる。DDTもPCBもそうだった。
化学業界がさまざまな物質を市場に送り出し、健康に及ぼす影響が後で判明するという事態が繰り返されている。
これでは子どもたちで人体実験をしているようなものだと、環境健康学を専門とする小児科医レオ・トラサンド博士は訴える。
私たちの体は、化学物質にどの程度侵されているのだろうか。大規模な実態調査は、米国でも最近まで行われていなかった。調査を義務づける規制がないうえに、高額な費用がかかり、そんな微量の物質を測れる高感度の測定技術も確立されていなかったためだ。
体内の化学物質をめぐる私の旅は、ニューヨークから始まった。
10月のある朝、マウント・サイナイ病院を訪れた私は、分析用の尿と血液の採取に臨んだ。
立ち会ったトラサンド博士は、水銀などの神経毒が子どもに及ぼす影響を研究していて、ほかの数人の専門家とともにこの企画の指導を引き受けてくれた。
用意された採血容器は全部で14本もあり、12本目あたりで頭がふらついて冷や汗が出てきたが、どうにか最後までこぎつけた。
検体容器におさまった私の血液は、カナダのバンクーバー島にある分析機関「アクシス」に送られた。
ここは化学物質の微量分析を専門とする世界でもトップクラスの研究所で、研究者や政府機関の依頼を受け、ワシの卵から人間の組織まであらゆるものを分析している。
自分の体内に潜む化学物質を調べる現場を見せてもらおうと、私も数週間後にカナダへ飛んだ。
私の尿にも血液にも、自然界にある化学物質や人工の化学物質が何千種類も含まれている。
そこから何段階もの処理を経て、狙いを定めた物質を分離していくのだ。
抽出したサンプルは、質量分析装置のあるクリーンルームへ運ばれる。
真空の長いチューブに試料を注入し、磁場を通り抜ける際の軌道の変化を測れば、分子の大きさと種類がわかるという。
体内に蓄積された化学物質の標準的な測定単位としては、10億分の1というごく微少な濃度を表す「ppb」が使われる。
数週間後に届いた検査結果には、ppb、さらにはppt(1兆分の1)といった単位の数字がずらりと並んでいた。こうした有毒物質がいつどこで体内に入ったのか、解き明かすのが次の課題だ。