・過敏症の世界にいざなう
毒物誘発性耐性喪失症(TILT)の二段階プロセス、すなわち有害物質に暴露して病気になり回復しないことは、環境が遺伝子の発現を中核となるDNAコード自体は変えずに変更する時に起きるエピジェネティックな変化によりもたらされるのかもしれない。
”環境的な出来事は遺伝子の活動に劇的に影響を及ぼす”と、ミズーリ・コロンビア大学の生殖内分泌学者フレデリック・ボンサールは説明する。
ボンサールは数十年間、内分泌かく乱ん物質として知られるビスフェノールA(BPA)のような化学物質への日常的な低用量暴露の能力影響の研究に費やしてきた。
これらの化学物質は、ホルモンのようにふるまい、特に胎児の発達期間の健康に深遠な影響をあたえる。
高用量では単に活動を停止するだけであるが、驚くほどの低用量では遺伝子活動の制御因子となり得るという結果を得た。
”一旦遺伝子がONになれば”とボンサールは言う。”そして一旦過敏になると、再プログラムされた細胞を持つことになる。
そして細胞が元の状態に戻ることは非常に難しい。
例えば、乳房の組織は後の生活においてがんになりやすくなり、子宮内での低用量暴露のために成熟が通常より早く起きる。
私は、発達期のエピジェネティックスについて個人的に研究しているが、これらの種類の出来事は生涯を通じて起きることを証拠が示唆している”。
TILTの世界では用量自体が毒にするのではなく、用量とホスト(宿主)が毒とにする。
そしてホストの病気への罹りやすさの関連性はわからない。
遺伝子的にぜい弱な場合、過剰な毒性暴露は生命のために体を再校正するように見える。
ウィリアム・バトラー・イェイツの詩”全てが変わる。完全に変わる”が言うように、新たな人々が出現し、通常の世界は今、彼らのために明らかには有害な地雷を生み出しているが、しばしば出っくわすまで気が付かず、被害者らは問題をほのめかすことなく、同じ地雷の上で他人のダンスを傍観している。
ミラーにとってキリングスワースが被った農薬中毒のようなことは、 TILTの事例として、恐るべきことではあるが、まさしく明快である。
1990年代中頃に、彼女と彼女の仲間ハワード・ミツウェルは、有機リン系農薬に暴露した後、永久的に病気になった37人をまた家や事務所の大幅な改造の後に病気になった他の75人について調査した。
農薬被害者らは、はるかに厳しい状態であったが、両方のケースともに、有毒物質への曝露は永久的なダメージを与える足跡を残した。農薬に曝露した時、37人のうち26人はフルタイムで働いていた。
調査時点までに(曝露後平均8年)、農薬曝露者のうち2人だけがフルタイムで働くことができた。
彼らの病気は、彼らの生活のあらゆる面で影響を与えてきたと彼らは報告した。
TILTは、文化や国を越えて同様であるように見える。ミラーは一冊の教科書”化学物質暴露:低レベルと高リスク”をマサチューセッツ工科大学(MIT)の政策技術名誉教授ニコラス・アッシュフォードと共著で出版した。
その本の中で、アッシュフォードは、ヨーロッパの9か国における彼の調査に関して報告したが、彼は不可解な新たな化学物質への不耐性の発病の同じパターンを見出した。
”私は、患者らを以前には悩ませたことがないものに通常ではない不可解な反応を示した患者がいたかどうかを医師に単純に問うた”と彼は言う。
”そして私は当然、イエスという回答を得て、その物語を聞いた”。
一方ミラーは、アメリカ、カナダ、日本、ニュージーランド、イギリス、及びオーストラリアからの同様の報告を発表した。
新たな不耐性と多種症状の発症が、ヨーロッパの農業地帯での有機リン系農薬(sheep dip)の散布者、有毒木材防腐剤に暴露したドイツの住宅所有者、大量の漏えいオイルからのガスを吸い込んだ人々、フィルムを現像中に化学物質を吸い込んだニュージランドの放射線医学作業者、そして新たに改造された建物の居住者や労働者の中に表れ始めた。
1987年に、ワシントンDCにあるEPA本部の改造作業に従事した225人の労働者が、27,000フィートの新しいカーペットの敷設を含んで換気が不十分な事務所の建物の広範な改造工事後に病気になった。
ほとんどの人々は回復したが、19人がTILTを発症し、長期間、身体障害となったので、この建物の所有者を訴えた。
湾岸戦争の退役軍人は、もうひとつの過敏症(“tilted”)グループである。彼らの病気は長い間、論争の対象であり、心的外傷後ストレス障害の一種として片づけられたが、最近、本物であると認められた。
ミラーは、驚くべき数の湾岸戦争退役軍人がTILTを発症したことを見つけた。”
1990年に戦争に行った70万人のうち、25万人が慢性的疾病をもって帰還した”と彼女は言う。
あるCDC(米・疾病予防管理センター)の研究は、湾岸戦争疾病退役軍人は、健康な退役軍人より多くの化学物質不耐性を報告した。
彼らは、テントの中での農薬、石油燃焼の煙、抗神経ガス剤、砂を固めるために地上に注がれるジーゼル燃料等の多種毒物曝露を経験していた。
ミラーが退役軍人を訪ねた時に、ある者はその部屋のドアに、”香料を身に着けている人は入室するな”という表示をかけていた。
多くの人々は医薬品不耐性の問題を抱えていた。
ひとりの退役軍人は、彼の妻に海外から好きな香水を送っていたが、彼女がその香水をつけて車に乗って家に帰る時に、彼はひどく反応したので、今後は決してそれをつけないよう頼んだ。
その後、彼らはコロラドの台地で休暇を取って回復したが、交通渋滞で気分が悪くなるドライブであったと報告してきた。
急進的な道 (13/11/21)
Keith Negley
ある化学物質に暴露すると、ある人々は、通常の洗剤、香水、又はここに示されるその他の化学物質に耐えることができなくなるかもしれない。
ミラーは、低用量暴露についての考えが初めからあって、彼女の仕事を始めたわけではない。長いブロンド髪で幅広のブルーの目をもつ彼女は、1979年に新たな産業医として、ピッツバーグにある全米鉄鋼労働組合に雇われた。
この組合は120万人の組合員を持ち、そのほとんどが男性であった。
”私は製鋼所、製錬所、鉱山を訪れるのが好きだった”と彼女は思い出す。”
私は、コークス炉に行き、溶鉱炉の中で鉄鋼が作られるのを見、鋳物工場で溶融金属を鋳型に注いで部品が作られるのを観察することが魅惑的であった”。
ミラーは時には、数十年間労働者達が働いているのと同じ環境の中で、数時間後に頭痛がすることがあったが、その時には彼女はこれらの頭痛について深く考えることはなかった。
彼女は、労働安全衛生局(OSHA)により定められた基準を会社に確実に守らせることだけを仕事とした。
しかし、その後、米・国立労働安全衛生研究所(NIOSH)は、ある女性鉄鋼労働者たちの心理学的及び管理的問題について調べるよう彼女に要請した。
その女性たちは二つの異なる工場で電子機器の部品に半田付け作業をしていた。
彼女たちは、ヒューム排気がない部屋で働いており、頭痛、疲労、そして集中力がなくなることを訴えた。
その年の NIOSH シンポジウムで発表した報告書の中でミラーは、半田作業によるヒューム中の有毒物質が彼女たちが訴えることの原因かもしれないと示唆した。
”私はその会議で唯一の非精神病医であった”と彼女は思い出す。”そして私が話を終えるまでに、私の考えを攻撃するために専門家たちがマイクに並んだ”。
もう一人異端者がいた。
物議を醸すシカゴのアレルギー学者セロン・ランドルフ(Theron Randolph)であり、彼は最初に私に支援を差し伸べた。
ランドルフは、1950年頃、仕事をなげうち、典型的なアレルギーとは大いに異なる広範な過敏性を持つ人々をテストし治療をすることを始めたが、 そのことは、血中に存在する免疫グロブリン(抗体)と呼ばれる免疫細胞が増える様子を通じて診断された。
ランドルフは、彼の患者は従来の手法では測定できない食物と化学物質に対する過敏で苦しんでいることを確信した。
彼はミラーを毎週のスタッフ・ミーティングに招へいし、そこで症例が討議された。
ランドルフが一人の患者から病歴を聞いていたのをミラーは思い出す。それは数時間かかった。
彼は、”あなたが本当に良くなったと感じた最後の時のことを教えてください。次にそれ以前のことを話してください”と言って診察を始めた。
彼は患者が話したと通りにその病歴をタイプに打ち込んだ。
ミラーはある詳細を次のように思い出す。
”彼女はシカゴの列車の駅で気分が悪くなった。彼女はフォームラバー・マットレスの上で吐き気を感じた”。
ランドルフは、彼のシカゴ事務所の近くに特別に建設した施設に患者を数週間”入院”させた。
入院中に彼らはフィルターを通った空気を吸い、化学処理されていない木綿の寝具の上で眠り、浄化水を飲み、数日間絶食した。
彼らの症状は、関節炎から頭痛、疲労まで、しばしば消え去った。
次に彼は、患者にブラインド・テスト(盲検)を実施した。
患者に有機リンゴと農薬散布リンゴ与え、あるいはガラス瓶に入れた印刷紙の臭いを彼らに嗅がせた。扁桃痛又は間接痛のような症状は、個々の患者が反応するどの様な物質に対しても再発した。
患者が診療所を出るときに、”これらの原因物質を回避すること”というのが、お決まりの処方箋であった。
”多くの患者は、薬物治療を止めてよくなることができた。
これらの人々は、通常では症状が出ないはずの微量の物質に反応した。
それは私が知っている医学のことごとくのパラダイムを壊した”とミラー説明する。
”私は医学校に行き、大学施設内の研究者として働き、当時は医学界または科学界の中で実質的にはだれも信じる人がいなかったこの素晴らしい仕事のために科学的信用を確立しようと決心した”。