・出展:いのち環境ネットワーク
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欧州環境庁(EEA)
『早期警告からの遅すぎる教訓:科学、予防原則、革新』
要約
5 水俣病:民主主義と正義のための挑戦
頼藤貴志、津田敏秀、原田正純
致命的または過酷に衰弱させる精神と身体への影響を誘発する水俣病は、日本最大の化学製造会社、チッソによって水俣湾に放出されたメチル水銀に汚染された排水が原因で発生した。
それは、汚染された魚を気づかずに食べた人々の間で広範囲の被害につながった。
この章は三つの段階でその逸話に証拠を提供する。
この病気は、1950 年代に初めて注目を集めた。
1956 年に公式に確認され、工場の排水が原因だと考えられたが、政府は汚染を止めたり魚の消費を禁止するといった行動を何も起こさなかった。
チッソはメチル水銀を排出していると知っており、それが活性因子であるようだと知ることができたが、協力することを選択せず、調査を盛んに妨害した。
政府も同意見であり、公衆衛生よりも産業の成長を優先した。
1968 年、チッソはメチル水銀汚染を引き起こす製法の使用を止め、次いで日本政府は、メチル水銀が水俣病の病因物質であると認めた。
この話の二つ目の段階は、メチル水銀が胎児の成長に影響を与える胎盤を越えて移るという発見について述べる。
それは、その後の人生で重大な精神的、身体的問題につながる。
専門家は当初、この問題を見逃した。
胎盤を越えたそのような移行について医学的合意は不可能だったからだ。
第三段階では、賠償のための闘いに焦点を当てる。
当初、チッソは非常に限られた基準のもとで「見舞金」を与えた。
1971 年に日本政府はもっと気前の良いアプローチを採用したが、訴訟とコストが増えた後、論争のある「専門家の意見」によって正当化された、もっと限定的な定義が1977 年に導入された。
被害者にとって法的な勝利は、その後、政府の姿勢を支持できなくし、政治的な解決は1995~1996 年に達成された。
2003 年には、「専門家の意見」は欠点があると示され、2004 年に最高裁判所は病弱者の定義を判じた。
2011 年9 月に、公認患者は2273 人いる。
未だに、地域とコミュニティでの調査の失敗は続いていて、経済的解決の地理的、時間的範囲がまだきちんと決まっていないという事実に影響を与えている。
意思決定と情報共有における透明性に関する根深い問題とともに、日本が人工的な災害の処理において根本的な民主主義的対立へ未だに直面していることを、この事態は示している。
この章は水俣病以降の、水銀汚染影響に関する三つの短い最新情報に注目する。
それは、経済活動での水銀の段階的除去についての2009 年の全世界的な合意と、政策決定者が情報に基づいた選択ができるよう、汚染物質についてのより良い情報の必要性を含む試みについてだ。
情報に基づいた選択は、低レベルメチル水銀曝露の推定された有害な影響に対して、魚消費の利益のバランスをとる。