このように,ビスフェノールAを生まれたばかりのラットに曝露すると多動性障害という行動異常がもたらされることが明らかになりました。
ビスフェノールA以外にも,p-ニトロトルエンで同様の作用が認められました。
それでは,多動性障害になったラットの脳の中ではどのような異常が起きているのでしょうか?
この問いに対して私たちはドーパミン神経系に着目しました。
多動性障害という行動異常ですから,運動を司る神経系の異常に違いないと考えたわけです。
生体の運動は,脳の様々な部位での神経活動が協調的にコーディネートされた結果でありますが,最初にドーパミン神経系を調べました。
ドーパミン神経に対する免疫組織染色の結果,ビスフェノールAによる多動性障害ラットの脳ではこれらが脱落していることが明らかになりました。
ラットのドーパミン神経系は,妊娠中期頃から発生し,生後間もない時期でもシナプスの形成が盛んに行われている段階にあります。
更には,脳を守るべき血液脳関門も未完成な状態であるため,化学物質は脳に取り込まれ易くなっています。
従いまして,脳に侵入した化学物質は運動を司るドーパミン神経系の発達障害をもたらし,結果的に多動性障害という行動異常をきたすものと考えられます。
次に,こうしたドーパミン神経の脱落はビスフェノールAの曝露によりアポトーシス(細胞死)が誘導された結果であるかどうかを検討しました。
アポトーシスが誘導されると発色(この場合は茶色)するような方法で調べてみますと,写真D(赤矢印)のようにアポトーシス細胞が明瞭に観察されました。
この結果は,大変重要な事実を明らかにしています。
授乳期における化学物質の曝露が,成熟期においても神経細胞死を促進していることが明らかになったからです。
生体外因子によるアポトーシス誘導の意義についてはいろいろな推論がなされていますが,一旦誘導されたアポトーシス細胞は速やかに除去されるという点に関しては研究者の間で一般的に認められています。
従いまして,授乳期におけるビスフェノールAの曝露により死んだ若い神経細胞は直ちに取り除かれ,成熟期には完全になくなっているはずです。
それでも写真Dのように成熟した脳でアポトーシス(神経細胞死)が観察されるということは,幼若期での神経損傷が引き金となり,その後も神経細胞死が続いていることを示しています。
このことは,近年注目されている晩発性疾患胎児期発症説(DOHaD; Developmental origins of health and disease)を想起させます。
DOHaDの概念はヒポクラテスの時代にもありましたが,1995年に英国のバーカー博士が提唱した仮説により注目されるようになりました。
疫学者であるバーカー博士は,疫学調査から母親の胎内での低栄養環境が成人期の生活習慣病の発症に有意に影響を及ぼしていることに気づきました。
その後の多くの疫学調査から,さまざまな成人病は母親の胎内での低栄養環境に起因しているのではないかと考えられるようになり,DOHaD仮説に発展しました。
栄養環境の他に,ストレス,感染,ホルモン,そして,身の回りの物理化学的環境因子の影響も成人期疾病の発症に重要な役割を演じているのではないかと議論されるようになってきています。
このDOHaD仮説に立脚しますと,化学物質を生まれたばかりのラットに曝露するとドーパミン神経の脱落が加速し,老人性ドーパミン神経変性疾患であるパーキンソン病の発症に至ると予想されます。
パーキンソン病の病因は,ドーパミン神経の約80%が脱落するためといわれています。
普通のヒトのドーパミン神経も加齢とともに徐々に減少していきますが,多くの場合,パーキンソン病を発症する前に一生を終えます。
一方,DOHaD仮説によりますと,子供の時期にドーパミン神経に損傷を負うことが引き金となり,その後のドーパミン神経が加速度的に脱落していくと仮定します。
その結果,60歳前後では生存しているドーパミン神経は20%以下に減少するためパーキンソン病を発症するのであろうと推測されます。
しかしながら,従来のパーキンソン病モデル動物は成熟した実験動物にドーパミン神経毒を曝露することにより作製されてきており,DOHaD仮説に基づくパーキンソン病モデル動物の報告はこれまでなされていません。
本研究で見られたような化学物質の作用を考え合わせますと,幼若期における化学物質の曝露が成熟期になって発症する疾患の原因になる可能性は十分に考えられます。
今後,精神神経変性疾患のDOHaD仮説を実証することは,極めて重要な研究課題になってきています。
(いしどう まさみ,環境リスク研究センター主任研究員)