・筆者が所有する行動試験法により構成されたテストバッテリーを適用した例として,有機ヒ素の一種であるジフェニルアルシン酸の試験結果を紹介します。
成獣(大人のマウス)に長期間与え続けた実験(慢性暴露実験)(表1)と,胎児~乳児期の発達期に限定して与えた実験(発生毒性試験)(表2)を実施しました。
成獣の場合は,比較的高濃度(30~100ppm;1ppm=1ml中に百万分の1グラム含まれる濃度)を27週間与えた実験と,より低濃度(7.5~30ppm)を57週間与えた実験を行いました。
30ppm以上で運動活性が増加しました。
これは興奮性が高まっていることを示しており,人では興奮しやすい,イライラしやすい,睡眠の質が変化する(入眠困難や熟睡できない)等に通じる影響です。
条件回避反応の学習も遂行も障害されませんでしたので,人の学習能力や状況に応じて行動する能力には影響しないものと予想されます。
しかし,受動的回避反応試験の結果から,比較的高濃度に長期間暴露された場合は記憶障害が生じる可能性が考えられます。
また高架式十字迷路試験の成績から,暴露が長期に及ぶと不安を感じ難くなるという感情面への影響も疑われます。
注目すべきはロータ・ロッド試験の成績です。
この試験では回転する棒の上にマウスが滞在できる時間を測定します。
従って,滞在時間が短縮するということは四肢を上手く働かせることができないことを意味します。
ジフェニルアルシン酸は人に歩行障害等をもたらす可能性があります。
表1 ジフェニルアルシン酸(DPAA)を成獣に慢性暴露した場合の行動影響
水を与えた対照群の成績との比較結果をまとめた。―は対照群と差が認められないことを示している。(拡大表示)
2 ジフェニルアルシン酸(DPAA)を胎児~乳児期に暴露した場合の行動影響
(拡大表示)
胎児~乳児期にジフェニルアルシン酸に暴露したマウスには,成獣の場合と異なる影響が及ぶことが判明しました(表2)。
まず,運動活性とロータ・ロッド試験では影響が見られませんでした。
また新規対象物認識試験で影響はみられなかったので,認知能力に影響は及ばないと思われます。
高架式十字迷路試験と自発交代反応試験において,マウスは装置の上あるいは中を落ち着くことなく動き回りました。
受動的回避反応試験の成績は記憶能力が低下する可能性と,おとなしく待つことができない可能性を示唆しています。
総じて落ち着きがない傾向が認められました。
暴露は胎児~乳児期に限られているにも関わらず,この傾向は生後13ヵ月まで観察されました。マウスの寿命は約2年ですから,ジフェニルアルシン酸の影響はかなり長く続くことを示唆しています。
今回ジフェニルアルシン酸について検討したのは国内でジフェニルアルシン酸による井戸水の汚染が発覚したためです。
調査では井戸水から最高十数ppmが検出されていますので,「心」に影響を及ぼすのに十分な濃度と考えられます。
化学物質が神経細胞にもたらす有害作用を神経毒性と呼び,発達しつつある若い脳に及ぼす影響を神経発生毒性と呼びます。
神経毒性学は比較的若い学問領域であるためその方法論は未熟であり,また現時点で得られている神経毒性データはごく限られています。
このようなことから,米国環境保護庁や経済協力開発機構(OECD)は,神経毒性データを得るための試験方法についてガイドラインを策定・公開し,神経毒性データの収集を図っています。
一方,我が国はこの点に関して後塵を拝している状況にあります。
汎用されている化学物質でしたら,いずれ他国が神経毒性データを提供してくれるでしょう。
しかし,使用されている化学物質は国によって異なり,またどの化学物質を問題視するかも各国異なるので,他国を当てにしてばかりいられません。特にジフェニルアルシン酸の事例のように我が国において初めて問題性が発覚し,対策に急を要する化学物質や我が国で新規に開発された化学物質の神経毒性データは,自ら収集する必要があります。今後,我が国においても神経毒性学の発展,普及と化学物質の神経毒性データの集積が望まれます。
(うめづ とよし,化学環境研究領域
生体計測研究室主任研究員)