家族一緒に住みたい、その思いで頑張りましたが親の評価は「ダメ人間」
それでも2回三重で暮らしましたがすぐに沖縄に帰ってしまいました。
お金で苦労はさせませんでした・・・チアノーゼで青い顔でも仕事に行ってました。
毎朝吐き、8時半に出て11時に帰る長い仕事。
機械に強い私は要領良くやってたので休む以外に文句は言われませんでした。
しかし使える奴はとことん使う会社だったので2年半過ぎた頃私の中で何かが切れました。
症状がひどくなり多彩になりました。
そしてあの派遣切り・・・私は自ら志願してやめる事にしました。
国の補助でアパートを借りて失業保険が切れた後生活保護を受けました。
ここまで6年、やっと専門病院で「化学物質過敏症」の診断。
治療を始める事が出来たのです。
「よく生きてられたね」医者の言葉に大きくうなずきました。
自分で言うのも何ですが、正に死闘でした。
毎朝今日死んでもいいと思い仕事に行った日々・・・
しかし・・・私は1人になりました。
化学物質過敏症が憎い!勝つ為には知識が必要だ、しかしあまり有効な情報が無い・・・
よし!情報をまとめたブログを作ろう!それがrunのブログです。
そして今、化学物質過敏症と戦っています。
勝つまで諦めません、死線を何度も乗り越えてきたのだから・・・
以上で私の半生の話は終わりです。とても簡単にまとめました。
これからも闘い続けます。