・水俣病と行政
1987年3月30日熊本水俣病の第三次訴訟(熊本地裁)で、相良甲子彦裁判長(当時)は原告勝訴の判決を下し、国と県の責任を認めた。
2004年10月、熊本水俣病についての政府の責任を認める判決が最高裁においてなされた。
公害に対する政府の責任を明確にしたという意味では画期的な判決ではあるが、被害者の立場からすればあまりにも遅すぎる判決であった。
後藤田正晴は徳仁親王と徳仁親王妃雅子|小和田雅子の結婚について、雅子が水俣病を引き起こしたチッソの社長を歴任した江頭豊の孫にあたることから、患者の憎悪や国民の不満が皇室に向くことを危惧し、「皇居に莚旗が立つ」と反対した。
しかし水俣病患者から皇室に抗議行動がされたことはない。
慰霊
Image:Minamata memorial (1).jpg|thumb|250px|水俣病資料館にある、水俣メモリアル
水俣病公式確認から40年目に当たる1996年、水俣湾埋立地に隣接する水俣市明神地区に水俣病メモリアルが完成した。
その後、水俣病公式確認から50年目に当たる2006年4月30日、水俣湾親水護岸に水俣病慰霊の碑が建立された。
碑には行政によって認定された犠牲者314名の名簿が納められた。
名簿に記載された犠牲者は認定死亡患者の2割に過ぎず、それも一般に公開されないことを条件に記載を承諾したものだった。
これは水俣病患者もその遺族も、いまだに続く水俣病や水俣病患者に対する差別を恐れた結果である。
なお、水俣病未認定死亡患者は名簿にその名を記載することさえ許されていない。
これらの事実は、水俣病が与えた社会的影響が未だ解決には程遠い事や、水俣病の認定制度の問題点を浮き彫りにしている。
自民党・政府は水俣病に対して積極的な解決を図るとしているが、認定基準を改めないなど実質的な進展は見られない。
第三水俣病
1973年(昭和48年)5月22日、朝日新聞により福岡県大牟田市の「有明海に第3水俣病」と報道され全国に水銀パニックが発生したが、その後の調査により誤報である事が判明した。
また、河川の堆積物から多量の水銀が発見された新潟県関川水系でも、約10名の水俣病類似症状の発生が1973年に報告された(関川水俣病)が、1971年(昭和46)の患者認定基準を適用した結果、否定された。
関川水系の水銀は流域の工場に由来するものと、上流部にある黒姫山、妙高山、新潟焼山などの火山由来によるものとの双方が起源となっている。
runより:水俣病患者はまだ苦しんでいます。
患者の会の報告を読んで悲しみをおぼえました。
シックスクール、シックハウス症候群、化学物質過敏症も環境病。
責任は誰にあるんだろうか?