・•1961年:水俣市で女児(3歳)死亡。
病理解剖で胎児生水俣病と確認。
•1962年:水俣病審査会,脳性小児マヒ患者16人を胎児性水俣病と認定。
•1963年:熊本大学が水俣病の原因はメチル水銀化合物で,これは水俣湾内の貝や新日本窒素工場の汚泥から抽出されたと公式発表。
•1965年、新潟大学は、新潟県阿賀野川流域において有機水銀中毒と見られる患者が発生していると発表した。
これはのちに新潟水俣病あるいは第二水俣病と呼ばれるようになる。
政府が発病と工場廃水の因果関係を認めたのは1968年である。
1968年9月26日、厚生省は、熊本における水俣病は新日本窒素肥料水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が原因であると発表した。
同時に、科学技術庁は新潟有機水銀中毒について、昭和電工鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀を含む工場廃液がその原因であると発表した。
この2つを政府統一見解としたが、この発表の前の同年5月に新日窒水俣工場はアセトアルデヒドの製造を終了している。
このとき熊本水俣病が最初に報告されてからすでに12年が経過していた。
なお、厚生省の発表においては、熊本水俣病患者の発生は1960年で終わり、原因企業と被害者の間では1959年12月に和解が成立しているなどとして、水俣病問題はすでに終結したものとしていたが、その後の展開から見てもこれは妥当な判断であったとは言い難い。
事実、国は水俣病発生の責任を認めず、原告と国との裁判はその後も続いた。
国は1990年に出された裁判所の和解勧告(9月に東京地裁が、10月に熊本地裁と福岡地裁が相次いで同じ趣旨の勧告を出す)を拒否しており、和解に転じるのは1996年のことである。
また、原告で和解を拒否した水俣病関西訴訟の裁判は、上記のように、2004年10月まで続いた。
公害裁判
1967年、新潟水俣病の患者は昭和電工を相手取り、新潟地方裁判所に損害賠償を提訴した(新潟水俣病第一次訴訟)。
四大公害裁判の始まりである。
政府統一見解後の1969年6月14日には、熊本水俣病患者・家族のうち112人がチッソを被告として、熊本地方裁判所に損害賠償請求訴訟(熊本水俣病第一次訴訟)を提起した。
•1969年:公害被害者全国大会開催。
水俣病,イタイイタイ病,三池鉱山の一酸化炭素中毒,森永ヒ素ミルク中毒,カネミ油症などの被害者代表百数十人が集まる。
•1970年:大阪厚生年金会館で行われたチッソ株主総会に、白装束の患者(一次訴訟原告家族)らが、交渉を拒みつづけたチッソの社長に直接会うために、一株株主として参加した。
大阪・水俣病を告発する会発足。
1971年、新潟水俣病一次訴訟の判決があり、昭和電工は有害なメチル水銀を阿賀野川に排出して、住民にメチル水銀中毒を発生させた過失責任があるとして、原告勝訴の判決が下された。
これは、公害による住民の健康被害の発生に対して、企業の過失責任を前提とする損害賠償を認めた画期的な判決となった。
•1971年:水俣病患者が新たに16人認定される。
患者総数150人,うち死者48人。
1973年3月20日には、熊本水俣病第一次訴訟に対しても原告勝訴の判決が下された。
すでに熊本県で水俣病が発生したあとに起きた第二水俣病|新潟水俣病の場合と異なり、熊本での水俣病の発生は世界でもはじめての出来事であった。
そのため、熊本第一次訴訟で被告のチッソは「工場内でのメチル水銀の副生やその廃液による健康被害は予見不可能であり、したがって過失責任はない」と主張していた。
判決はこれについても、化学工場が廃水を放流する際には、地域住民の生命・健康に対する危害を未然に防止すべき高度の注意義務を有するとして、公害による健康被害の防止についての企業の責任を明確にした。
•1973年:環境庁が水銀値25ppm以上の底質(海底や川底)はすべて除去することを決める。
これに基づき水俣湾の汚泥除去と埋め立てが行われる。
•1973年:水俣市の水俣病認定患者が自殺。