主は宥(なだ)め香りをかいで、御心に言われた。
「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。
人が心に思うことは、幼きときから悪いのだ。
わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。
(創世記第八章第21節)
ノアの方舟の最後のシーンの一部です。背景をご説明いたします。
神が人を創造してから年月が経ち、人が増えて いきました。
すると、神の前に人々は堕落していきます。神を顧みません。
人の悪が増し、常に悪いことばかりを人々が心に思い計っているのをご覧になり、
神は人を創ったことを後悔します。
とうとう神は、神と共に歩んでいたノアとその家族、一部の生き物以外のあらゆる生き物を
洪水で滅ぼしてしまいます。
ノアとその家族一部の生き物たちは、神の命令で作った方舟に乗ることにより、洪水から命を免れます。
一年もの洪水を起こした神は、ノアをはじめ残ったものたちを憐み、水を引かせます。
神から舟を降りることを許されたノアたちは、神のために祭壇を造り献(ささ)げものをします。
献げものは、家畜と鳥を焼いたものでした。
その献げものの香りは、神を宥めるものとなったのです。
そこで神は、人間が悪いことを考えても、神を顧みなくても、滅ぼすようなことはしないと考え直したのです。
ここに、(神の)無条件の愛があります。
そのままのあなたに、神は愛を注ぎます。
ちなみに、人間には無条件の愛は持てません。
そこで、「アガペー」という神の愛を示す独特の言葉が有ります。
「無条件」とはいかないまでも、人々がそれぞれに愛を持って接することは必要です。
しかしながら、私自身も含め、残念ながらこれがなかなか実践できません。
愛の重要な要素の一つは、相手に向き合い、生き方や考え方を認めることと考えます。
私たちがつい侵(おか)してしまいがちなことを挙げます。
人間関係において、すぐに相手を裁いたり差別をしたりする。(相手の言動や行動)
パートナーシップにおいて、 相手を束縛する。
個の出来事を世界的視野で見れば、例えばキリスト教とイスラム教は同じ神を信仰しているのにお互い認め合わず、殺戮を繰り返している。
実践出来なくしている原因(ブロック)はいくつか考えられますが、
自分自身と向き合えないと、相手とも向き合えないのではないでしょうか。
お互いに認め合うことは、妥協することではありません。
相手を認めることで、自分自身を失うわけではありません。
相手と自分との比較はできません。
認め合う前に相手との勝負は必要ありません。
ブロックが取り除かれて、相手と向き合い、認めることができるといいですね。
かくいう私もまだまだなのです。
「無条件の愛」とはこんなにも非情なものなのかと考えさせられる出来事が有りました。
最近、差別の現場に遭遇し、信頼関係が崩れていく場面を目の当たりにしました。
話し合いの中で、ある人がある人の生き方を非難していました。
非難する人に同調する人達もいました。
とても残念でした。
生き方は人が決めるのではなく自分で決めるのが原則なのに、相手の生き方を堂々と裁いているのです。
「人間としてその生き方はいけない」という発言を聞いたときには、閉口しました。
私は差別をした人々に対し嫌悪さえ覚えました。
しかしそれでも、
神は差別をする人間にもされる人間にも「無条件の愛」を注ぐのでしょう。
差別をする人に対して差別された人が立ち上がり戦うことは、
愛からは程遠い行為なのでしょう。
複雑な気持ちです。
皆さんはどうお考えになりますか。