マキヲのひとり旅 -4ページ目

マキヲのひとり旅

2枚目になれない3枚目4コマ目の自称珍道中


Kari Richter/Goldberg Variations BWV988 _VariationⅠ
Kari Richter/『Goldberg Variations』



主は降(くだ)って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。
「彼らは一つの民で、、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。
これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、
互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」   (創世記第十一章第5-7節)



聖書にある「バベルの塔の物語」をご存知ですか?

世界中の人々が同じ言葉を、同じように話していたころ、人々は石の代わりにレンガを、漆喰の代わりにアスファルトで天に届く塔を建てました。
その様子を見た神は、人々が使っている言葉をお互いに通じないようにし、人々を各地へ散らせたという話です。

なぜ神は、このような切り離しをしたのでしょうか。

人々の神への挑戦に対しての、神からの仕打ちだという説が、多くの人に知られています。
ちなみに先述の石とレンガ、漆喰とアスファルトは、神と人間との対比表現です。
神への挑戦のために建てた天まで届く塔を、神から与えられた自然の素材ではなく、人工の物質でつくると表現することで、神への挑戦を更に強調しているものと思われます。

神を畏敬することを忘れないことは大切です。
しかし、(前回記事の)「ノアの洪水物語」で、神は人々が悪い考えを持ったとしても滅ぼさないという無条件の愛を宣言したばかり。
(聖書の中の)人々で、ノアの洪水について語り継いでいる人も居るはずです。

「神への畏敬を持つ」と捉えること以外にも、このように捉えることはでいないでしょうか。

神は人間の多様性を祝福しているのです。

人々は生きていく上での役割や希望があります。
バベルの塔を作りたかった人は、実際にどのくらいいたのでしょうか。
全員では無い筈です。

バベルの塔を作ることよりもやることはある。
それでも、塔を作ることを強いられてしまった人たち。

彼らに対して、神は神故に可能である手段を使い切り離したのです。

切り離すことにより多様性を生かしてくださったのです。
全体主義へのアンチテーゼです。

切り離す際の、神の思いやりも込められています。
先述に、彼らが何を企てても、妨げることができないとあります。
全能の神に企てを妨げることができない訳がありません。
実際に困っているのは塔を作るために不本意に駆り出されている人々であったのにもかかわらず、神自身が困るからという理由で切り離すのです。

神に祝福された私たちの個性を大切にしたいものです。
逆に言いますと、

自分と向き合い自分らしさを確立させたあなたにこそ、神は祝福するのです。

自分と向き合い直向きな姿勢を応援してくれているように感じる曲が、
カール・リヒター(チェンバロ)が弾く、ゴールトベルク変奏曲 BWV988第一変奏です。
時には必要な「我武者羅(がむしゃら)」「無我夢中」。
人生で数年間ぐらいはそんな時期もあっていいんだなと思わせてくれます。