先日、フェイスブックを見ていてチェコの言葉の発音や綴りについての投稿がちょっと頭に残りました。
現地の人に「ボルジャークを知らないのか」と言われよく聞き直してみるとドヴォザークのことだったとか、
そのドヴォザークの名前をその綴り(Antonín Leopold Dvořák)からアメリカ人はドヴォラークと呼ぶ、と言うような内容だったと思います。(元の投稿が分からなくなってしまったもので確認できませんでした。いい加減な記憶で申し訳ありません。)
そう言えば昔、チェコ語の読み方で悩んだことがあったな。
いや、悩んだは大袈裟だけど。読めなくて結局カタカナで書いてあるのを丸暗記して歌った・・・、あれっ何の曲だった?
しばらくそんなことで頭がもやもや。(最近よくあるのです(汗)ど忘れというか何と言うか・・・)
あっ、そうだ。風呂に入った途端思い出しました。
ウボイ ウボイ マッキスト カ ブラッチョ・・・(記憶は曖昧。かなりいい加減かも(汗))
いきなり大声で歌ったので、台所で料理をしていた妻が手を切りかけた、とか(なんて(笑) 嘘ですよ!)
「ウ・ボイ、ウ・ボイ(U boj u boj)」と言う歌、合唱、特に男声合唱をやったことのある人なら多くの人が歌える曲だと思います。それに旋律は知らない人がいないんじゃないかと思うくらい知られていると思います。たぶんスポーツの入場行進とかで・・・
この歌、確かチェコの言葉じゃなかったっけ?
と言うわけでWikipediaを見てみると・・・
「ウ・ボイ、ウ・ボイ(クロアチア語: U boj, u boj、日本語訳: 戦へ、戦へ)はクロアチアの愛国歌。イヴァン・ザイツ (Ivan Zajc) によって1866年に作曲された。作詞はフラーニョ・マルコヴィッチ (Franjo Marković 1845〜1914)」(ウ・ボイ、ウ・ボイ - Wikipedia)
えっ、クロアチア語? ・・・えっ?
何だか頭の中をクエスチョンマークが飛び回っています。 ・・・えっ?
Wikipediaを読み進めると、私が勘違いしていた理由が分かりました。
「1918年、シベリア出兵において日米連合軍がチェコ軍団を救出した。翌1919年、チェコ軍団は米国、日本、中国のチャーター船でウラジオストクから順次、海路で帰国を開始。同年8月13日に第3船へフロン号は845名のチェコ軍将兵を乗せて出航した。しかし、日本海から南下中のへフロン号は折から襲った大台風により、8月16日、下関沖の六連島大文字岩の暗礁で座礁、日本海事会社の3船が応急修理した上で、満潮を待って曳航して離礁させ、8月20日、門司港外に到着。将兵たちを門司YMCA本館と天幕などに収容して関係者が協議した結果、船は神戸三菱造船所で修理すると決まり、将兵たちは9月3日、下関から特別列車に乗って出発し、4日に神戸に到着、船を修理する2ヶ月間を神戸で待機することになった。
神戸に滞在するようになったチェコ軍の中に英語を話せる将校がいると知った兵庫県の外事課長はチェコ軍の世話をするために知人で英語の達者な関西学院生の塩路義孝(関西学院グリークラブ所属、1922年 - 1994年)に通訳を依頼。塩路は連日のように学校からの帰途、チェコ軍宿舎を訪れたが、たまたま将兵たちの中にオーケストラと合唱隊の練習に出くわし、自ら所属するグリークラブとの交流を呼び掛け、同年9月15日に関西学院に招き、チェコ軍オーケストラと合唱隊の演奏会を開く。以降、塩路らグリークラブ員たちはチェコ宿舎で歌うなど数度にわたって交流。その際に彼らがチェコ合唱隊から聴いた合唱曲の中で特に印象の深かった「ウ・ボイ」を含む4曲の譜面を貰い、へフロン号が修理を終えて帰国前のお別れ会で関西学院グリークラブは「ウ・ボイ」を歌ったが、異国の学生たちが歌う「ウ・ボイ」に帰国を前にしたチェコ軍将兵の中には涙を流す者もいた。」(ウ・ボイ、ウ・ボイ - 日本へ紹介された経緯 - Wikipedia)
こちらのサイトにそのあたりの経緯が詳しく記載されています。これは貴重な記録ですね。
関西学院 GLEE CLUB "U Boj"story
ちなみに「ウ・ボイ」は「突撃!」と言う意味だそうです。
それにしてもクロアチア語とは知りませんでした(笑)