健康に関する話題は様々なところで出てくる。
温泉やマッサージといったものから食品・食材といったものまで、健康を強調するものは多い。
ところで、「健康」とは何だろうか。
良好な状態、すこやかな状態というのが言葉自体の意味であるが、何をもって良いとするかは様々な判断基準がある。
そのため健康とは何かという問いに対して、答えは一つではない。
ストレスが無いことを健康とする人がいれば、栄養のあるものを食べることを健康とする人もいる。
個人個人で違って当たり前である。
しかし実際は、医者や教授など権威のある人が健康と言えば健康とされることが多い。
「○○が含まれているから健康にいい」「遺伝子組み換えでないから安全」などと言われることで食品を購入する人は多く、同じようなことが温泉やマッサージにもあてはまる。
これでは判断を他人に任せているため、業者のカモとなっている。
何かのサプリメントを飲んだからといって必ず結果が得られるということはなく、また得られる結果も誤差であることが多い。
また、健康を謳う温泉があっても、そこに行ったからといって何かが起こるというわけでもない。
そこで得られるものは、あくまでも自己満足の域を出ないのである。
消費者自身が自分なりに健康とは何かを考えないと、お金と時間がどんどん消えていく。
健康について知るためには本を読んだり試行錯誤したりすることが欠かせない。
何の苦労もなしに「健康」を手に入れようという考え方自体が甘いのである。
研究の世界では、お金儲けをすることがタブーとされている。
研究にひたすら取り組み、科学の発展に貢献することこそが大切で、科学技術で稼ぐことはもっての他という空気が強い。
一言で言えば、かなり刷り込まれている印象を受ける。
お金のことは学校ではほとんど教えてもらえず、教師の中にはお金=悪のように語ったり、お金に執着している人が大勢いる。
大学に入るまでの12年間、そのような環境で育った人が集まるのだから当たり前ではあるが、お金というものは本来は卑しいものではなく、生活したり仕事をするうえで必要なものである。
江戸時代に既得権益層が下の人間に「お金は卑しい」と刷り込んでから、そのような風潮が未だに続いている。
それが出る杭を打つムラ社会の空気と合わさり、利益を得ることが許されないという流れを生み出している。
そのような風潮を何も疑わずに信じ、研究に没頭したとしても、最終的に利益を得るのはモノを作る人間であり、研究する側には利益はほとんどない。
お金儲けを悪とする風潮は企業側からすれば好都合である。
「研究が楽しいのだからそれでいい」「科学者はお金儲けのことなんか考えずにひたすら研究し続けるべきだ」という考え方が広まれば、研究者がより良い道具を提供してくれるからである。
利益を得ることをタブー視する風潮は研究者から搾取する構造を生み出し、研究する側のメリットはなくなっていく。
ミドリムシの例のように、もし研究をマネタイズできれば研究者本人が報われ、他の人間も何らかの利益を享受できる。
正直者は馬鹿を見るとはまさにこのことである。
学術界にそのような考え方がある故に、優秀な人間は就職・独立してしまう。
研究に真面目な人間が報われるべきではあるものの、悲しいことにこれが現実である。
友人と話していて、努力が空回りしていると言われたので、前回の記事を掘り下げる形で書いてみたいと思う。
「空回り」の定義とはなんだろうか。
頑張っているのに「全く」効果が現れないのか、得られたものが「少ない」のか。
得られるものがゼロかそうでないのかで、その言葉が意味するところも変わってくる。
前者について。こちらはわかりやすい。
努力が「全く」結果に結びつかない場合、その努力は方向を間違っていると言える。
クラブ活動やサークルで日々練習するものの、本番で結果が出ないという経験をしたことがある人は少なくないだろう。
これは練習することや活動をすること自体が目的になっていて、本番で結果を出すことが目的になっていないパターンである。
筆者は以前まで柔道をやっていたが、練習することが目的となってしまったため、満足の行く結果を出せなかった。
本番に強い友人はこのことに気付いていたので、大会では毎回結果を出していた。
一見して真面目に見えても、本人が何のために努力しているかを勘違いしている場合、結果が出ることはあまりない。
俗にいう真面目系クズである。
問題は後者である。
ある程度結果が出ている状況下では、さらにいい結果を出そうと思えばそれまで以上の労力が必要になってくる。
この場合、努力の方向自体は間違っていない。
前回の記事にも書いた通り、努力と結果が比例しない領域に入ってきているのである。
より良い結果を出すためには様々なものを犠牲にしなければならず、その解決には戦術ではなく戦略レベルでの改善が必要である。
英語などはまさにそうで、TOEICは試験勉強によってスコアは上がるものの、ある程度のところで頭打ちになる。
そうなった場合、より難易度の高い英検1級やTOEFLの勉強をしたり、英語で書かれた新聞や本を読むというように、勉強方法を大きく変えなければならない。
枠組みレベルでの改革が必要である。
またこの場合においては、努力しても他の人が利益を持って行ってしまったり、そもそもある人物や組織が利益を得られるようなルールの下で動かされているかについて気をつける必要がある。
例えば資格の所持についてであるが、世の中で資格の所持がすごいと言われるようになって得をするのは、その資格を発行する側である。
英語関係では、高いスコアを持つ人はすごいと言われるようになれば勉強したり受験したりする人が増え、スコアを発行する側に入ってくるお金が増えていく。
単に知識を習得するという目的があってやるのならば良いのだが、資格取得が偉いという風潮を盲信した場合、搾取されてしまう。
資格勉強から得られるもの自体は多く、問題解決の手段としてはありではあるが、資格取得が目的になると損をするというのは何とも皮肉である。
以上のように、結果に全く影響しないのか、労力に対して得られるものが少ないのかという2つに分けて述べた。
努力するということはお金や時間がかかるものなので、その使い道を誤った場合の損失は大きい。
限られた資源を有効に使うためにも、何のために努力するのかといったことを考えるべきである。
「空回り」の定義とはなんだろうか。
頑張っているのに「全く」効果が現れないのか、得られたものが「少ない」のか。
得られるものがゼロかそうでないのかで、その言葉が意味するところも変わってくる。
前者について。こちらはわかりやすい。
努力が「全く」結果に結びつかない場合、その努力は方向を間違っていると言える。
クラブ活動やサークルで日々練習するものの、本番で結果が出ないという経験をしたことがある人は少なくないだろう。
これは練習することや活動をすること自体が目的になっていて、本番で結果を出すことが目的になっていないパターンである。
筆者は以前まで柔道をやっていたが、練習することが目的となってしまったため、満足の行く結果を出せなかった。
本番に強い友人はこのことに気付いていたので、大会では毎回結果を出していた。
一見して真面目に見えても、本人が何のために努力しているかを勘違いしている場合、結果が出ることはあまりない。
俗にいう真面目系クズである。
問題は後者である。
ある程度結果が出ている状況下では、さらにいい結果を出そうと思えばそれまで以上の労力が必要になってくる。
この場合、努力の方向自体は間違っていない。
前回の記事にも書いた通り、努力と結果が比例しない領域に入ってきているのである。
より良い結果を出すためには様々なものを犠牲にしなければならず、その解決には戦術ではなく戦略レベルでの改善が必要である。
英語などはまさにそうで、TOEICは試験勉強によってスコアは上がるものの、ある程度のところで頭打ちになる。
そうなった場合、より難易度の高い英検1級やTOEFLの勉強をしたり、英語で書かれた新聞や本を読むというように、勉強方法を大きく変えなければならない。
枠組みレベルでの改革が必要である。
またこの場合においては、努力しても他の人が利益を持って行ってしまったり、そもそもある人物や組織が利益を得られるようなルールの下で動かされているかについて気をつける必要がある。
例えば資格の所持についてであるが、世の中で資格の所持がすごいと言われるようになって得をするのは、その資格を発行する側である。
英語関係では、高いスコアを持つ人はすごいと言われるようになれば勉強したり受験したりする人が増え、スコアを発行する側に入ってくるお金が増えていく。
単に知識を習得するという目的があってやるのならば良いのだが、資格取得が偉いという風潮を盲信した場合、搾取されてしまう。
資格勉強から得られるもの自体は多く、問題解決の手段としてはありではあるが、資格取得が目的になると損をするというのは何とも皮肉である。
以上のように、結果に全く影響しないのか、労力に対して得られるものが少ないのかという2つに分けて述べた。
努力するということはお金や時間がかかるものなので、その使い道を誤った場合の損失は大きい。
限られた資源を有効に使うためにも、何のために努力するのかといったことを考えるべきである。
効率よく物事を進めるというのは重要であるが、効率化そのものが目的になってしまってはいけない。
効率化というのはあくまでも過程を良くするものである。
効率がどうであれ、結果は出さなければならないので、結果の方が遥かに大事である。
効率化はあくまでも手段や過程という分類に入る。
しかし、仕事の場では効率を良くすることばかりに焦点が当てられ、肝心の結果はおろそかにされがちといった場合が多い。
結果の良し悪しについて考えた場合、いい結果ほど時間やお金がかかる。
2倍の時間やお金をかけたとしても、結果が2倍になることはほとんどない。
これは嗜好品と同じである。
1000円のイヤホンと1万円のイヤホンとで音質が10倍違うということはない。
値段が上がると変化が小さくなるように、時間をかけるほど結果の変化は小さくなる。
結果に誠実になるというのは大切である。
しかし、多くの人が効率化を言い訳に結果から目を背けてしまう。
確かに悪い点と向き合うのは勇気が要るが、結果というものでしか誠意は表わせないのである。
※本記事で言いたいのは結果と向き合うべき、手段の目的化は避けたほうが良いといったことです。
過去記事と反するように見えるので念のため。
下請けかそうでないかの違いは大きい。
エンドユーザー(消費者)に対して価格を決められるという点はかなりのメリットである。
企業にとっての顧客は企業ごとに異なるが、顧客が消費者か業者かによって価格交渉の有利不利が異なってくる。
もし相手が業者の場合、「代わりはいくらでもいる」と言われて低価格化を迫られ、利益は下がる一方である。
一方、相手が消費者であればこちらが自由に価格を決めることができ、無理に価格を下げる必要がなくなる。
同じ「顧客」でも、BtoBとBtoCとでは相手が違う。
消費者を相手にすれば独自性で攻めることができ、どのくらいの値段で売るかというのもこちら側で決めることができる。
どう売るかという戦略を考える必要があるが、価格交渉の優位性は馬鹿にならないので、なるべくBtoCの立場でやりたいものである。