企画詳細

 

 

ジャッキー作品との思い出

 じょじょ丸

 

1978年、ブルース・リー主演『死亡遊戯』が公開された。

 

当時中学生だった僕は、昼休みに〈死亡遊戯ごっこ〉と称して、タイマンでけりあう遊びに興じた。クラスで一番背が高かった僕は、皆から勝手に「お前、カリーム・アブドゥル=ジャバ―な」と決めつけられ、映画同様、小さい男が巨人を倒すが如く蹴られまくった。

 

ある日、頭に来た僕は「俺はジャバ―じゃない。ダニー・イノサントだ」とハンカチを濡らし振り回したら、全員から「反則だ」と罵られた。

 

やがて『死亡遊戯』も冷めた頃、香港から『Mr.BOO』がやってきた。

予告を見た僕は愕然とした。パロディに満ちた『Mr.BOO』シリーズは、パロディが何かを理解していない僕には〈パクリ映画〉に見えた。僕の中では「香港映画はパクリばかり」と言う認識になった。

 

そこに「昔ドラゴン、今ドランク」と言うキャッチコピーで『ドランクモンキー酔拳』が公開された。「ブルース・リーのパクリ映画が来た」と思った僕は「この映画は観ないでおこう」と決めた。

 

夏休みになり東京に行った僕は、念願だった〈映画館のハシゴ〉をした。

地方の10倍は映画館がある東京は憧れだった。3本見て、時間的にあと1本となり、雑誌の上映時間表からちょうど見られるのは『ドランクモンキー酔拳』だけだった。どうしようか悩んだが「まぁ、見るか」という思いで劇場に入った。

 

上映終了後、僕はジャッキー・チェンの虜になった。

 

雑誌『スクリーン』『ロードショー』の切り抜きなど、彼に関するものを次々集めた。『蛇拳』『笑拳』は初日と最終日に行き、見逃した『拳精』は電車で3時間かけて高山市の劇場まで行った。

※当時映画は〈巡回興行〉だった。東京→地方都市→地方 という具合に公開日が遅れていた

 

やがて、東映から配給されていたジャッキー映画は東宝東和に移り『バトリクリーク・ブロー』が公開された。これにはあらゆる面で失望した。まず、髪が短い。舞台が中国でない。予告にブルース・リーの怪鳥音等々……。さらに、東宝東和が既に東映で大人気になっているジャッキーを〈無かった事〉にして〈新人ジャッキー・チェン〉として売り込みを行ったのに腹が立った。

 

「ジャッキー・チェン(本名:陳港生)京劇の学院で学び……」

知っている。「俺たちを何だと思っている」的怒りが来た。

 

次に公開された『ヤングマスター』が英語だったことも怒りを増幅させ『キャノンボール』で主演クラスのような予告を見て本編に失望。「やはりジャッキーは東映だよ」と、次々と公開されるロー・ウェイ監督作品に期待し撃沈した。その後『プロジェクトA』『ポリス・ストーリー』等でジャッキーは唯一無二の存在になっていくのだが…

 

大人になり、それらの(オリジナル)DVDが販売され、僕は東宝東和に深い感謝をすることになった。『プロジェクトA』『ポリス・ストーリー』などは、オリジナルより日本公開版の方が優れていた。これは東宝東和が再編集をして公開していたのだった。NGシーンのアイデアも東宝東和だったという。

 

考えてみれば、東映のオリジナル日本主題歌や、再編集された東宝東和版があったおかげで、ジャッキー映画は心に残る作品になったのだと思う。

 

 

 

じょじょ丸

Chaiの20年来のジャッキーファン仲間であり、ジャッキー関連知識においての師匠的存在。

1979年公開『ドランクモンキー酔拳』から劇場に足を運び、焼き付け字幕を事細かく暗記するほどの記憶力の良さ。

今回はエッセイにて、これまでのジャッキーファン活の思い出を存分に語っていただきます!

 

紹介・責:Chai