前回までのあらすじ

 

ヨーロッパを熱狂の渦に巻き込んだ十字軍は失敗に終わり、イスラム教徒はレバント地方でさらにその統治を盤石な物としていた。一方バルセロナ伯は領土を徐々に拡大し、次の一歩を踏み出すべく教皇へ秋波を送る。

 

本編

 

1098年10月20日、この日バルセロナの評議会も、バルセロナ市に集っていた領国内の様々なコルツの代表も、バルセロナ市民も皆喝采を上げていた。ローマ教皇からバルセロナ伯に対し王号を授けられたのである。

 

 

南仏に徐々に勢力圏を広げ、ちょうどこの数日前にアキテーヌ公国との戦争に勝ったバルセロナはさらに南仏に領地を広げていた。

 

 

十字軍で活躍できなかったバルセロナ伯国ではあったが、エルサレム北方に取り残された敗残兵の教皇軍とそれに帯同していた教皇使節団をわれらの輸送船団に同乗させ、無事にイタリアまで送り届けたことで教皇の好意を勝ち得ていた。

 

 

教皇に対するいくらかの鼻薬はそれでも必要であったが、いずれにせよこれによりバルセロナは王号を名乗ることが出来るようになった。以後はバルセロナ王、バランゲー・ラモンとなる(厳密にいうと、王号はこの時に創設されているのでバルセロナ『伯』バランゲー・ラモン2世はバルセロナ『王』バランゲー・ラモン1世となるはずですが、混乱を生みかねないので以後もバルセロナ伯(ちなみにゲーム的には公、です)とバルセロナ王としての呼称をこの人物に関しては統一していきます。バルセロナ王、バランゲー・ラモン(バルセロナ伯バランゲー・ラモン2世)のように)。また、これもゲーム的にはバルセロナ王ですが、現実にはここにカタルーニャ君主国(英語:Principality of Catalonia,カタルーニャ語:Principat de Catalunya)が存在していたので、これをもってAARでもこの称号をカタルーニャ君主国(バルセロナ王国)としていきたいと思います。

 

 

またかねてより造営中だった、それまで常設で無かった評議会の協議の場やコルツの代表や市民との謁見の場が、これと前後してバルセロナ市内のローマ時代の市壁の内側に完成した。これが宮廷(royal court)である。

 

 

まだその中は閑散としたもので、廷臣もそれほど多くは無い。ましてこの建物の中で贅沢な午餐や饗応を出来るほどわれらの国は豊かではない。だがこれにより能率的な政務を行えることになるであろう。

 

 

われらの国土はこれまで慣習上のアラゴン王国の一部であった。しかし今は違う。

 

 

かつてはアラゴン王国の慣習的領地は地中海までの領域であったが、この度の王号の授与により、そこにはカタルーニャ君主国が慣習的な王国の領域を占めるに至ったのである。この時アラゴン王の称号を持つ人物は、そもそもアラゴンの公爵領の僅か1割しか保持できておらず、この教皇の裁定にいくらかの抗議を行ったようだが、そのような弱小国家の抗議に教皇は耳を傾けることは無かったようである。

 

 

その後も周辺国の混乱に乗じて少しずつ領土を拡大していく。1100年までには南仏からかつての神聖ローマ帝国領南西部のブルグンド王国の南側までを版図に入れる。南イタリアにあったオートヴィル家のシシリア王国も分割相続によりカラーブリア公国とアプリア公国に分かれ、その上カラーブリア公国はほぼ毎年内乱が発生し知ている状況であり、ここに付け入る隙はありそうである。

 

神聖ローマ帝国はいったん国内の動乱を収めているが、若輩の神聖ローマ皇帝は複雑な統治機構を上手く機能できるだけの側近も抱えず、親政をすることに拘っていると聞く。また、フランス王国も北方でノルマンディー家の支配するイングランドとノルマンディーの領土について紛争を抱えているようである。

 

今のところ、われらがカタルーニャがこの地域で大国化することへの周辺国の危機感は直接こちらに向くことは無いようである。

 

余談ながら、十字軍としてレバントに遠征した時に地方の小さな城砦を占拠する時があった。その時たまたまそこにいたファーティマ朝の王の娘を捕縛することがあった。そのすぐ後に長年連れ添った妻が病没した。それを契機に外交上の戦略を考え、このファーティマ朝の王の娘と婚姻を結ぶことにした。国内でのイスラム教徒との関係も考慮してのことである。

 

十字軍での大敗北後の混乱で教皇庁からこのことについて反応は無かった。