前回までのあらすじ

 

教皇庁から王号の称号を授与されたバルセロナ伯バランゲー・ラモン2世はバルセロナ王(カタルーニャ君主国)バランゲー・ラモン1世となった。

 

本編

 

バルセロナ王の称号を得たところまでは良かったが、その後数年間は同盟国の戦争に巻き込まれてしまう。南仏への勢力の扶植を考えていたのだが、同盟関係にあるポーランド王の戦争に協力することになった。

 

 

1101年時点では、シシリア島での衝突があり、これに対して勝利を収めた。

 

 

1102年にはフランス王国に対してラングドック地方のアルビの領有を懸けて戦争が行われる。この時にはポーランド王国から援軍要請があり、フランス王国との戦いに早めに決着をつけなければならなかった。

 

 

フランス王国はこのころ弱体化が著しく、その戦争は年を跨ぐことなく終結した。しかしポーランド王国の戦争は決着がつかなかった。

 

 

1103年になっても戦争は膠着状態が続く。その間にもバレアレス諸島のイビサ島を制圧し、西地中海におけるカタルーニャ君主国の覇権が確立されつつある。

 

 

ポーランド王国の情勢は非常に悪かった。1104年になると、ボヘミア王がポーランドの領地を狙って宣戦布告を行った。ポーランドは二正面で戦争を戦う必要が出てくる。我々としてもイビサ島を占領した兵力を終結させ、それを大西洋方面からポーランドに送り、本格的にポーランド王国の戦いに加勢を始める。

 

 

ポメラニアに対する戦争は既に3年が経過。そしてボヘミア王の侵攻に対しても、撃退することはあってもこちらから逆襲をすることなく、3年が経過する。

 

 

この間、我が息子が元帥として評議会に加わり、そこで良い仕事をしていた。多くの騎士たちと訓練を行い互いの能力を高めていったようだ。

 

結局全ての戦争に決着がついたのは1107年になってからだった。この間、内政においては実りある時期であったのだが、それは次の機会にまとめて説明をすることにしたい。バルセロナ王を称するようになってからの最初の7年は戦争に明け暮れた7年間であった。ポーランド王との同盟関係ではバルセロナ王国側が一方的に負担が大きいと感じられた。