前回までのあらすじ

 

レリダ首長国の海岸沿いの領地を掌握したバルセロナ伯は1068年の年明け早々にバルセロナ市に凱旋した。婚姻関係を周辺国と結び、攻守同盟を締結した南フランス諸侯のアキテーヌ公、そして幼少ながらわが一族の娘と婚約をしたフランス王、こうした周辺国の動向はいかに・・・

 

本編

 

レリダ首長国とは5年間の休戦を含む講和条約を結び、首長国側から海側一帯の地域の割譲を受けることになりました。ここはバルセロナ家直轄とし、将来的には港の建設もしていきます。

 

1068年は対外的には安定した年で、領内の巡行を行いバルセロナ市にいくらかの新たな建造物(building)を建設出来ました。カタルーニャ文化圏に属する伯領の発展度(development)と税収を増大させる建造物を優先して建築していきます。

 

年が明けて1069年7月、我が評議会で最年長であり、宮宰(steward)でもある(注:stewardを直訳すると家令となりますが、これは執事のような意味で、実際の役職を考えるとメロヴィング朝のころからの宮宰(羅:maires du palais)の方が適切だと思うので、このAARではこのように訳します)セルダーニャ伯ラモンが老衰により亡くなりました。

 

 

既に前年から定例の評議会へ出席するために領地のセルダーニャからバルセロナまでの移動に辛さを訴えており、領地の経営を息子に任せ、自身はバルセロナ市内の別邸に常在するようになっていました。臨終の時にはその息子も駆けつけ、私も別邸に向かい、宮廷司祭も駆けつけ終油の秘跡を行いました。この時代には珍しく77歳での穏やかな最期でありました。

 

 

複雑な性格(嘘つき(deceitful)、皮肉屋(cynical)、内気(shy)という性格)の持ち主でありましたが、間違いなくバルセロナ家のために尽くした忠臣でありました。

 

後任の宮宰を決めなければなりません。そこで能力が高く若いカブレラ家のポン(正確なカタルーニャ語だと発音的にはポン(ッ)のようになるようです。ここではポンで)を新しい宮宰に任命しました。

 

 

彼は私の友人でもあります。一昨年の戦争終結直後に親交を深める機会があり、その時から彼の管理能力に目をつけていました(実際には宮宰の任務のひとつ、所領の発展について、プレーヤーと友人関係であると僅かながらボーナスを得られます。そこで彼より管理能力の高い人物もいましたが、友人であるということでポンを宮宰に指名したということです)。

 

こうしてまた時は流れ、1071年になると周辺国で異変が起こります。

 

 

なんと息子の婚約者アグネスの実家、アキテーヌ公に対して臣下が暴政を誅すべく蹶起したのです。アキテーヌ公ギーエン3世は実際の臣下が武器を取る前に何かを察知していたらしく、開戦前に使者を我が方に使わしていました。

 

もちろん当家もアキテーヌ公側について戦います。アキテーヌ公は強欲だったりすることも無く、時々気まぐれで(fickle)、時に冷笑的(cynical)ではあるけれど、領地の経営で臣下に無理を強いるようなことも無く、息子の婚約者の父親であることを置くとしても、大義はこちら側にあるとも思えたからです。

 

この時、私はバルセロナ軍の指揮を私自身ではなく三男のバランゲー・ラモンに執らせました。これが初陣です。

 

 

我が息子3兄弟の中で武勇に秀でた唯一の人物です(歴史的には彼と、彼の双子の兄が、このラモン・バランゲー『老伯』の死後、共同統治をおこないます。兄が早世したため、この人物からバルセロナ家が続いていきます。なお、後日このゲームのチートについて紹介する時に、歴史的な流れと同じとなるように家督がバランゲー・ラモンになるようチートを実行してみます)。

 

婚約相手はこの時点で北東フランスに1伯領だけ保有する一族になりましたが、かつてのフランク王国の主、あのカロリング家の娘です。

 

ちなみにこの戦争の相手方の首領はアングレーム伯フルク。

 

 

なるほど、アキテーヌ公との仲は最悪です。もちろん開戦したためにそうなっているのもありますが先の戦争でもレリダ首長国を調べた優秀な密偵を放つと、

 

 

あ・・・

 

そりゃ、蹶起しますわ。

 

アキテーヌ公からの援軍要請の使者が開戦直後に我が方に到着したのもこれで合点がいきます(仕掛けたのがアキテーヌ公自身なんだから)。

 

これは最近のアップデートでAIの思考に変更(改悪?)が加えられたところで、全ての領主は例えば公爵であれば、その慣習的領地内の伯領を掌握するような行動をとるようになっているようです。それがここでも(悪い意味で)起こったようです。

 

しかし兵力に優っているために蹶起側を各個撃破すればたやすいと思っていました。ところが・・・

 

 

アキテーヌ公国の南で蹶起に加わった伯領をバルセロナ軍が制圧した直後に、突然戦局が蹶起側に圧倒的有利となりました。いったい何があったのでしょう。

 

 

なんとアキテーヌ公国領北方での戦闘で、アキテーヌ公ギーエンが捕虜になっていた。ぐぬぬ・・・

 

これでは戦になりません。結局南部地域での優勢を活かせず、アキテーヌ公(もはや『元』と呼ぶべきかもしれませんが)は蹶起側の要求する条件での講和を受諾。

 

 

命こそ奪われませんでしたが、隠居(deposed)させられてしまいました。これでアキテーヌ公爵位はギーエンの息子(実はギーエンの娘と我が長男の婚姻を取り交わした直後に男子のアキテーヌ公の継承者が生まれていた)、4歳のロベールが保持することになりました。

 

 

しかし同盟関係はご破算です。そしてアキテーヌ公国では公の権限が制限され、臣下の権限が強められたため、仮に同盟を結び続けていたとしても、大きな戦力での支援は期待できなかったことでしょう・・・

 

こうして1072年は同盟国アキテーヌ公国での政変に巻き込まれながら閉じていきました。これにより今後の戦略に狂いが生じてしまいました。

 

このアキテーヌ公国での政変の一部始終は以上の通りですが、実はこの間、既に述べたように軍の指揮は三男が執っており、その間私ラモン・バランゲーはバルセロナの王宮で戦争の報告を受けつつ執務をこなしていました。

 

その間にいくつかの出来事があったので、次回は短くそれらのエピソードについても話していこうと思います。