昨日はなぜか吉本隆明を読んでいた、
文系講師マゴメです。
「今さら吉本隆明ですか?」
蒋介石には言われたくないです。
あれは最晩年のエッセイになるのか、
「真贋」
なんて全然難しくないです。
中学受験に出せるんじゃないかと。
吉本隆明は既に、
さんざん語られてきた哲学者であり詩人なわけで、
私が付け足すようなことはもちろんないです。
内容だけ少し紹介。
戦時から戦後にかけての様子を描いた一節で、
「戦時中に愛国少年だった僕」
はアメリカ占領軍を前にして、
「何かひどいことをしようとしたら、
死んでもいいから突っかかって殴ってやろう」
という覚悟で見張っていたそうです。
ところが、
「ケチの付けどころがない」
「アメリカ兵は分け隔てなく誰とでも平等に接している」
そんな姿を見てしまうわけです。
「自分が逆の立場だったらとてもそうはできまい」
と反省するわけですね。
「今、手元に本がないからうろ覚えで書いています」
蔡英文にフォローされてしまいましたが、
さておき、
吉本隆明が、
三島由紀夫と太宰治に言及した箇所があります。
3名はもちろん、
「戦時中を生きていた作家」
として共通しています。
曰く、
「三島由紀夫の小説は描写が非常に正確だが、
持って生まれた観察眼の鋭さというより、
後天的に作り上げられた観察眼という感じで、
人工的な匂いがする」
あー、そうだなあと。
三島由紀夫の観察の鋭さを指摘する意見は多く、
もちろん目新しいものではないですが、
「人工的だ」
と言われると、
「あー、そっちの方が正確じゃん」
という気になります。
「太宰治は腕の良い料理人がさっと調理して、
はいどうぞ、
と目の前に出される感じで、
ごく自然に仕上がっている」
そこで「駆込み訴え」を例として出されると、
「はい、その通りでございます」
と感心するほかはない。
「人工的な感じってのをもうちょっと詳しく・・・」
「人間が作るんだから全て人工的じゃん?」
えーと、
作品の向こう側に、
作家の姿が見えてしまうと、
冷めてしまうことってありませんか?
人工的ってのは、
作り手の工夫や苦労が見えてしまう場合ということで、
いかがでしょう?
正確さに感動することはもちろんありますが、
ちょっと息苦しい感じ。
逆に一読してすっと入ってきて、
「これなら自分でも書けそうだ」
と、
真似しようとしても、
まず絶対に書けないというのが自然な文章。
実際の苦労は同じかもしれませんが、
後処理の違いというか、
すっと喉を通るかどうかの違いです。
この違いは小説でなく、
役者の演技の方がわかりやすいです。
「どう見ても木村拓哉にしか見えない」
という場合と、
「どう見ても岸田露伴にしか見えない」
という場合。
「せめて伏せ字にしろ!」
木村拓哉は役者として実力はあると思いますが、
「役を作りこみました」
というところが見えてしまい残念かと。。
どうしても高橋一生や岡田准一にかなわない。
「その二人と比べるのはやめろ!」
今写真を挿入して気付きましたが、
「これは信じがたい(美しい)映像だが、
確実に自分と繋がっている世界の一部である」
と感じさせる写真と、
「見てみて、この写真ちょっといいでしょ」
という写真にしか見えない写真。
前者の写真は一瞬ストレスを忘れますが、
後者の写真はストレスを増やします。
人工っぽさを消すには、
それなりに修練が必要なんでしょう・・・
あるいは、
「やっぱ 天才っているんだね」
というだけのことかもしれません。
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