学歴について。思うことがある。
わたし、個人的には、仕事上も日常生活上も学歴を話題にすることはない。興味もない。だから、わたしにとっては、学歴はあまり意味のないものである。
しかし。社会的には違う。
違うし、違ってしかるべきである。今でも大学入試の時期になると、学歴をテーマにした記事がネットに溢れかえる。
わたしは、思うのだが、もっと細分化して、場合分け等して、語ればいいのではないか?
という気がする。
基準1・偏差値
基準2・大学教育レベル
基準3・卒業生のクオリティの平均値
これらをゴジャゴジャにするから、訳が分からなくなる。
偏差値基準でも大いに盛り上がればいい。東大に合格できた人間は、大学受験時までに、かなりの時間、青春をないがしろにして、勉強に打ち込んだと推測できる。その努力と犠牲は、大いに褒められてしかるべきである。偏差値下位大学にしか行けない学生が遊びまくっている時期に、ひたすら勉強していた努力は称賛に値する。わたしはそう考える。
ここまでが基準1。文句ありますか?(。・ω・。)?
で、次。大学は学問・教育の場というのが、本質なはず。ここから基準2・基準3の話に移行する。ここに、企業側において、確信的な選抜基準を採用した動機があるのだとすれば、学歴フィルターなる装置も、肯定されるべきだと思う。
理由。難関大学出身者は、漢字の読み書きも計算も問題ないと仮定する。一方、偏差値下位大学出身者は、読み書き、計算もロクにできないレベルが散見されたと仮定する。学習意欲も、そもそものべースとなる能力も違う。同じ研修をやっても、効果が全然違ったりした場合、どちらを採用したいと思うか?を考えると正当性はあるから。である。
漢字、語彙のレベルが低いということは、即ち思考力も比例して低いという現象につながる。人間は、言葉で考え、言葉で論理を構築するからである。言葉を知らないということは・・・
わたしは司法書士であるから、時々こういうことを考える。
「反証を許さないようにするためには、どうすればよいか?」
反証とは推定された事実を覆すための概念事実である。
司法書士や弁護士なら、わざわざ説明しなくても理解できるはずである。
こういうことが、日常でも、語彙の保持レベルで頻繁するのである。
「君が言っているのは、事実か?推測か?それとも憶測か?希望的観測か?感情表現か?妄想か?虚偽か?一体なんだ?まずは、それを答えてくれないか?でなければ話が進まない」
わたしは、しょっちゅうこういう考えが脳裏に浮かぶ。上記の言葉のひとつひとつの意味(語彙)が分からなければ、わたしが何を質問しているのかも分からないはずである。こちらは、どの種類の概念を述べているのか、はっきりしないと、返答のしようがない。それが分からなければ、ことばの意味内容をどう捉えて解釈したらよいのかまるで分からないから、こう考えるのも自然なことだという認識でいる。
こういうことである。基準2・基準3を考慮したときに、あきらかに、基準1の結果が大きく影響しているという判断ならば、大学名である程度絞り込みをかけるのは、致し方がないという考え方である。差別ではない。
基礎学力の不足が、どこまでも治癒されずに、すべてに悪影響を与えたことになるという仮定の話である。断片的な専門知識があっても、新聞・書籍も漢字が邪魔でロクに読めないレベルでは意味がないのである。
ただし。人間の存在の価値は、仕事ができたり、勉強ができたり、それだけではないから、学歴をもっての人格否定などは飛躍がありすぎる。判断材料としては足りなすぎる。これはダメである。
ちなみに。わたしは、仕事柄、難関大学と言われる大学を出ている者と関わることが多いが、東大を出た、早稲田を出た、と言っても、それが「賢さ」につながっている、という印象を持つ人物には会ったことがない。特に司法書士や弁護士は、試験合格後の研鑽の仕方で、レベルが全然違ってくる印象がある。試験合格後に、誰かが作った事務所への勤務司法書士・弁護士への道を選び、サラリーマンみたいになったのと、そうじゃない者の違いが随分あるように感じている。
同じ司法書士、同じ弁護士と言っても、レベル1からレベル100くらいまであるような感覚である。全然能力が違う。ひどいのになると条文すら読めないレベルにまで落ちる。この辺は、自戒も含め、注意しなければならない。