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司法書士 荒谷直樹のブログ

埼玉県所沢市の司法書士フラワー総合事務所代表。ジャンル問わず「本音」で書いているブログです。法律&メンタル&個人的戯言、などなど。司法書士としては相続登記~訴訟支援まで、幅広く相談を受けています。話をよく聴くタイプの司法書士です(^^)

 わたしは、若い頃から、好きな言葉をノートに書いて時折見返す習慣があります。19歳の時からはじめた習慣です。今みたいにSNSなんか無い時代です。ユーチューブもない。そんな時代に、自分を励まして支えてくれたのが、「先人の言葉」でした。司法書士試験の受験生時代には、毎朝読んでいた記憶があります。

 

 わたしは、どういうわけか、勉強や試験勉強に関しては、一緒に勉強する仲間がいたり、あるいは親や教師から期待されて、そういう期待に応えたくて頑張ったなんていう時代がありません。司法書士試験の受験生時代は、秋田の田舎で独学で勉強。受験仲間は0人。受験機関もない。高校時代は、勉強は頑張ってやっていましたが、まあ普通。で、第一志望大学は京都大学・教育学部だったのですが、落っこちて横浜国立大学・教育人間科学部・国際共生社会課程という「学問面ではパッとしない大学・学部・課程」に入学したものの、目指した学問ができずに、心が折れて、勝手に自主退学。

 

 こんなんなので、勉強面、学問面に関しては、ほぼ全部独りで頑張ってやってきました。誰も励ましてもくれない。期待してもくれない。ただ、京大は落っこちましたけど、模試なんかでは、ちゃんとそれなりの成績は取れていたので、学力的にはそんなに劣ってはいなかったはずだと思っています。若い頃はこんなんでした。こういう状態でしたが、勉強だけは続けていました。本もバカみたいに読みました。21、22歳くらいの時、アパートの本をブックオフに買い取りに来てもらったら、2000~3000冊くらいありましたから。全部、大学教授とか学者が書いた本です。心理学系の書籍が多かった気がします。

 

 わたしは、勉強面や試験勉強面では、常に孤立奮闘状態でした。今もです。わたしが、同業の司法書士たちと群れないのは、彼らとは、上記に書いた通り「バックグランド」が全然違うので、もってる知識も知識量も種類も全然違うからです。職業は同じでもアタマの中身が違うので、意見が一致することがあまりない。司法書士は、わたしの社会的な職業であって、わたしの性格・人格・考え方とはあまり関係がない。わたしが興味があるのは、人間そのものだからです。他の司法書士は、「売り上げ」ぐらいにしか興味がない。ほとんどが決済業務、相続業務、後見、各種登記業務ぐらいでしょうか。ヘタをすると六法すら引けないのがゴロゴロいる。予備校とか受験機関のテキストしか読まないで受かったのは、法律をバラバラの状態で読んで、考える能力がない。わたしは法律すら独学。誰も教えてはくれなかった。

 

 で、わたしの経歴はこんな感じなのですが、こういう生き方ができたのは、わたしにある種の「才能」があったからだと思います。で、この「才能」は、人間であれば誰でもみんな持ちうる「能力」なはずです。将棋の羽生善治さんが、このことを言葉にして表現してくれています。

 

☆何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれない所で、同じ(情熱・気力・モチベーション)を持って、継続しているのは非常に大変な事であり、私はそれこそが才能だと思っている。(羽生善治)

 

 つまり、なにか目標なり、目指す方向性があるのであれば、結果がでようがでまいが、努力が報われようが報われなかろうが、常に同じ情熱・気力・モチベーションを維持して継続することが大事であって、こういう態度を貫けることを「才能」だと言ってるんだと思います。

 

 だからね。野党国会議員のみなさま。このままでは、たったひとりのよく分からない政治家:高市早苗に日本が壊されてしまうぜ。それでもいいのか??????嫌なら、気合と根性でなんとかせんかい!!!!!SNSで非難・中傷されるのがいやだ??????・・・・・・・そんな、軟弱な精神であれば、国会議員なんかやめてしまえ!!!!!!!(▼皿▼)自分が非難されるのと、日本が壊されるのを黙って見ているのと、どっちを選ぶんだい?????おい( ̄○ ̄)トトロの作者の言葉他、いくつか言葉贈ります。

 

☆理想を失わない

現実主義者にならないといけないんです。

理想のない

現実主義者ならいくらでもいるんですよ。(宮崎駿)

 

☆世慣れして、要領のいい立ち回りを覚えたら、もうだめです。平凡な人間でも、必死に努力したものが勝ちです。一生懸命やれば必ず報われる、と私は信じています。(大鵬)

 

☆自ら省みて縮(なお)くんば千万人と雖も我行かん。(孟子)

(⇒意味:反省してみて自分の考えや行動が正しいと確信したら、敵がたとえ千万人いたとしても、恐れずに立ち向かっていく決意を表している。)

 

 

 

 
 

 
 

 
 

 
 

 

 

 

(事務所デスクの横の壁に貼り付けてある言葉)

 

 

 

 

 

 「知識」の属性・性質について「武士道」(新渡戸稲造著)を手掛かりに書いてみます。これに関しては、日本人のほとんどが、大学受験まで知識を暗記しまくって、試験会場で入試問題に落とし込んだ以降は衰退の一途を辿る。戦後日本人の「知識」の在り方ではないかと思います。司法書士や弁護士も、司法書士試験や司法試験合格時がピークで、あとは衰退の一途を辿り、ヘタをすると六法すら引く習慣さえ無くなり、最低なのはインターネットやマニュアル本の特定のページで調べるのが当たり前になってしまう。それじゃ、いかんと思います。ネットやAIばっかりに頼っていたら、人間としての自分が消滅してしまいますよ。大事なことは自分のアタマで考えないと。

 

☆知識はこれを学ぶ者の心に同化せられ、その品性に現れる時においてのみ、真に知識となる。

 

 「武士道」にこう書かれている箇所があります。これが結論です。これが実践できれば強いです。司法書士も弁護士も、これを意識できるか、自分の態度に取り入れられるかで全然違ってきます。試験時が知識のピークというは、あまりにも勿体ない。では、また「武士道」からそれが意図することが分かるように、センテンスを引用します。

 

・孔孟の書は青少年の主要なる教科書であり、また大人の間における議論の最高権威であった。しかしながらこれら聖賢の古書を知っているだけでは、高き尊敬を払われなかった。

 

・孔子を知的に知っているに過ぎざる者をば、「論語読みの論語知らず」と嘲る俚諺(りげん)がある。

 

・典型的なる一人の武士(西郷南洲)は、文学の物識をば書物の蟲(むし)と呼んだ。また或る人(三浦梅園)は学問を臭き菜に喩え、「学問は臭き菜のようなり、能く臭みを去らざれば用いがたし。少し書を読めば少し学者臭し、余計書を読めば余計学者臭し、こまりものなり」と言った。その意味するところは、知識はこれを学ぶ者の心に同化せられ、その品性に現われる時においてのみ、真の知識となる、と言うにある。

 

・知的専門家は機械であると考えられた。知識そのものは道徳的感情に従属するものと考えられた。人間ならびに宇宙は等しく霊的かつ道徳的であると思惟せられた。

 

・武士道はかかる種類の知識を軽んじ、知識それ自体を目的として求むべきではなく、叡智獲得の手段として求むべきであるとなした。それ故に、この目的にまで到達せざる者は、注文に応じて詩歌名句を吐きだす便利な機械に過ぎざるものとみなされた。

 

・かくして知識は人生における実践躬行(じっせんきゅうこう)と同一視せられ、しかしてこのソクラテス的教義は中国の哲学者王陽明において最大の説明者を見いだした。彼は知行合一を繰り返して倦むところをしらなかったのである。

 

 こんな感じです。「実践躬行」とは自分で実際に行動すること。「知行合一(ちこうごういつ)」とは、「知ること(知識)」と「行うこと(実践)」は本来分けることができない一体のものである、という陽明学の思想で、真の知識とは行動を伴うもので、実践して初めて知識が完成することを意味します。知識だけでは不十分で、口先だけでなく実際に行動に移してこそ意味がある、という実践を重んじる考え方です。 

 

 武士道が説く「知識」は実践を要求します。単に知っているだけで、実践もできない知識のひけらかしは、「論語読みの論語知らず」と馬鹿にされました。

 

 少し前の日本人の「知識」に関する常識は、これが常識だったはずです。今はどうでしょうか???「論破」だの「ぴしゃり」だの、表面的な言葉尻だけを捉えて、正しいとか間違っているとか、「ネット賞賛」とか、日本人がおかしくなっているじゃないですか???そうじゃないですか??????自分のアタマに実践可能な知識すら入っていない。知識があっても、ゴミみたいなどうしようもないガラクタばかり入っている。だから、高市早苗総理みたいなヘンテコリンな政治家のパフォーマンスに騙される。あの人、わたしには、中身の無い空虚な政治家に見えています。世の中の人が、どこが良くて、彼女を支持すると言っているのか皆目見当もつかぬ。紙と鉛筆出して、彼女を支持する理由を書き出して、そこに「論理に裏づけされた妥当性」があるかセルフチェックしてみてほしいと思います。きっと、「働いて働いて働いて働いて働いて」とか「女性初の総理」とか「きっとすごい総理になる」とか中身のない「戯言フレーズ」しか出てきませんから。それで、どうやって日本が良くなるというのですかい??????









 「武士道」(新渡戸稲造著)の第5章に「仁・惻隠の心」という章がある。天下の治める治世者に必要な能力・心の在り方を説いている箇所である。まず、それを端的に表すものとして、西洋の詩が掲載されている。西洋の格言と東洋の思想の見事な一致として、新渡戸稲造が引用している詩句である。

 

☆敗れたる者を安んじ、傲(たか)ぶる者を挫(くじ)き、平和の道を立つることーこれぞ汝が業

 

 これはヴェルギリウスの言葉(詩)である。この言葉に見られる精神と武士の精神は一致していると書かれている。彼はラテン文学の黄金期を現出させたラテン語詩人である。主な活動期は紀元前1世紀。

 

 以下、「武士道」から、仁・惻隠の心の意味がわかるような箇所をいくつか紹介していく。

 

・弱者、劣者、敗者に対する仁は、特に武士に適(ふさ)わしき徳として賞賛せられた。

 

・愛、寛容、愛情、同情、憐憫は古来最高の徳として、すなわち人の霊魂の属性中最も高きものとして認められた。それは二様の意味において王者の徳と考えられた。すなわち高貴なる精神に伴う多くの属性的王位を占むるものとして王者的であり、また特に王者の道に適わしき徳として王者的であった。

 

・孔子も孟子も、人を治むる者の最高の必要条件は仁に存することを繰り返した。

 

・孔孟共に、この王者たる者の不可欠要件を定義して、「仁とは人なり」と言った。(「中庸」)

 

・封建制の政治は武断政治に堕落しやすい。その下において最悪の種類の専制から吾人を救いしものは仁であった。

 

・仁は柔和なる徳であって、母のごとくである。素直なる道義と厳格なる正義とが特に男性的であるとすれば、慈愛は女性的なる柔和さと説得性をもつ。

 

・我々は無差別なる愛に溺れることなく、正義と道義とをもってこれに塩つくべきことを誡められた。伊達政宗が「義に過ぐれば固くなる、仁に過ぐれば弱くなる」と道破せる格言は、人のしばしば引用するところである。

 

・「最も剛毅なる者は最も柔和なる者であり、愛ある者は勇敢なるものである」とは普遍的真理である。

 

・優雅の感情を養うは、他人の苦痛に対する思いやりを生む。しかして他人の感情を尊敬することから生ずる謙譲・慇懃の心は礼の根本をなす。

 

 以上、「武士道」より抜粋。こういう武士道における仁を眺めていても、わたしには、高市総理・高市政権には、仁の心など何も感じられない。

 

 「弱者、劣者、敗者に対する仁は、特に武士に適(ふさ)わしき徳として賞賛せられた」の徳が何も感じられない。感じるのは、「俗物から発せられるいやらしさ」だけである。大衆に媚び、権威に媚び、金に媚び、自己に酔う。それだけである。そもそも総理になる前は、あんなに不自然に笑ってなどいなかったではないか?なぜ、総理になった途端にニヤケまくるのか?そんなに総理になって嬉しかったのだろうか?自分に酔っているのであろうか?そろそろ酔いもさめてくれないと日本が壊れてしまうのではないか・・・。