~自分が何者であるかという意識が行動の決め手に~(アイデンティティ) | 司法書士 荒谷直樹のブログ

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自分で自分の行動が選べる人というのは、自分が何者であるかという意識(アイデンティティ)がしっかりしている。アイデンティティがきちんとしていると、自らの行動を安心して選べるのである。

 

 著書「カウンセリング心理学入門」(PHP新書)の中で、(故)國分康孝先生はそうおっしゃっています。先生は、筑波大教授などを務めた心理学者です。「先生」と言ってはいますが、教え子でもなければ、直接お会いしたこともありません。ただ、ふとしたきっかけで手にした書籍から、その人柄に惹かれ、10冊ほど先生の本を本棚に並べて、時折めくっています。先生は晩年youyubeもやっておられて、私は、パソコンの前で、ノートとペンをもちながらその「講義」を受けていたので、「先生が知らない教え子」のひとりなのかもしれません(笑)

 

 「アイデンティティが行動の決め手になる」ということを、冒頭のことばは言っています。例示として、次のようなエピソードが書かれています。

 

☆ある刑事の話

 「自分は柔道三段だけれども、五段の泥棒を捕まえていた。道場で勝負したら、やっぱり三段は五段には負ける。しかし、犯人を逮捕するときには、「俺は刑事である」というアイデンティティがはっきりしているため、何としてでもおれはこの泥棒を押さえないといけないと思うから、三段でも五段の泥棒をちゃんと押さえて手錠ぐらいかけられるんだ」というのである。

☆大学院での話

わたしの教官は「勇怯の差は小なり、責任感の差は大なり」(※勇怯勇気のあることと臆病なこと。)という言葉を教えてくれたが、まさにその通りである。したがって、私は大学院の学生を教えるときには、「君たち、大学院で教育を受けたんだから、それだけのことをしなければいかん」と言うようにしている。「それだけのこと」というのは、きちんとした文章を書かなければならないし、個人指導もできなければならない、そして他人様にカウンセリングもきちんと教えられなければならないということである。「書くのと指導するのと教えるのと、その三つができないことには、大学院に来た甲斐がない」と言って、知らない間に「おれは大学院を出た人間だ」というアイデンティティを植えつけるようにしているのである。それが気迫の根源となるのである。

 

 わたしにとっては、こういうエピソードは「正しい」し、共感できると心底思います。ただこのエピソードが書かれている書籍は1998年に発売されたものです。今は2024年ですから、26年前ということになります。(「男らしさ」「女らしさ」なんていう言葉を口に出そうものなら、「性の多様性」を武器に「集団リンチ」にでも合いそうな今の時代ですからね・・・随分と「変化」の早い時代に生まれてしまったものだと思います。)

 

 今は、上記の意味で使われるようなアイデンティティというものが、持ちにくい・育みにくい・正しいと覚知しにくい、そんな時代じゃないかと思います。個人的なものも職業的なものも。このところ、「多様性」という言葉が「流行」っています。はっきりとは分かりませんが、本来の意味で使われる「多様性とネット・テレビ等で安易に使われている「多様性」とは中身・意味が違うんじゃないかという気がしています。安易に叫ばれる「多様性」は、誰でも性別・年齢・職業問わず、なんでもかんでも好きなような、考え・認識・振る舞い・属性・趣味・嗜好等を主張して良く、それは保護されるべきもので、周囲や社会はそれらを受容しなければならない、それらを否定したり異議を唱えるのは「多様性の時代に合わない、古臭い、良くない態度だ」というように、わたしには見えています。「人はみな好きなように考え、行動してよく、とにかく何事においても自由である。何者も自分以外にひとに、何かを強いたり、誰かを不快にさせるようなマネはしてはならない。こういう考えに反する言動は、時代遅れであり、今の時代に合わない。そういう言動をする者は、みな悪者であり、ネット・SNS・テレビで袋叩きにしなければならない・・・・」。おっかない時代ですね・・・・。(「多様性」等の最近の「響きの良い一見やさしそうな」思想群隆盛の根底には、個性を尊重し、各自のアイデンティティを確立・保護し、ひとりひとりの人間誰もが生きやすい社会を「作出」しようという様々な「主体」(国・役人・学者等々)の「目論見」があるんじゃないかという気がしています。が、その「目論見」はしくじりに終わるんじゃないかという予感がします。周囲にチヤホヤされ、自らも自分にチヤホヤしてるだけではアイデンティティは育つまい、と思うからです。)

  

 「自分で自分の行動が選べる人というのは、自分が何者であるかという意識(アイデンティティ)がしっかりしている。アイデンティティがきちんとしていると、自らの行動を安心して選べるのである。」という國分康孝先生の言葉は、わたしは正しいと思います。時代を問わずです。自分が何者であるかという意識がちゃんと確立していれば、自分の判断に自信を持ち、自らの責任で行動していけるし、生きていける。ということは、自分が何者であるかという意識が持ちにくい、なんでもありの浅薄な多様性の今の時代には、多くの人が自分の判断に自信がなく、自らの「行動指針」すら「外注」で賄うしかなく、常に不安が付きまとう生き方になってしまうのでないか。そんな風に予感しています。そういう視点で、今の世の中をみていると、妙に納得できてしまうことが多いです。

 

(参考)

・みずから考え、みずからの危険において敢行することを避けるのは、卑怯なる責任回避である。(三谷隆生「幸福論」より)

 

・己れの感情は己れの感情である。己れの思想も己れの思想である。天下に一人のそれを理解してくれなくたって、己れはそれに安んじなくてはならない。(森鴎外 「余興」より)