~現実原則と快楽原則について~ | ~「クロスロード」~栄光への架け橋( ^-^)ノ~

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司法書士フラワー総合事務所代表司法書士(埼玉県所沢市)。司法書士・行政書士・整体師・心理カウンセラー資格を保有。ブログ内容はジャンルを問わず、徒然なるままに書いています。どこかの誰かのお役に少しでも立てれば幸いです(^^♪

 精神分析学者フロイトが提示した概念である。

 

 現実原則とは、外界の現実に適応するために、不快や緊張に耐え、欲求の充足を延期したり、断念したり、別の充足の方法を探したり自我による調節機能である。赤ん坊から子供、大人へと成長するにつれて、現実に合わせて、待つことのできる大人の心の働きができるようになる。この調節機能を現実原則という。

 

 快楽原則とは、心的活動において、欲動が高まっているのにも関わらずその緊張が開放されない心的状態を不快というが、その緊張の減少を求める心的過程を、快楽原則という。たとえば、生後間もない乳児は、快楽原則に支配されており、欲動の即自的な満足を得られないと、泣いたり、手足をバタつかせるのが、その例である。

 

 つまり、快楽原則は、成長に伴う情緒的な成熟や経験による学習によって、社会的に修正されていく。学校や会社、社会と進むにつれて、周囲(外界)から求められる行動規範などが現実原則の例である。

 

 対比すると、現実原則志向とは、禁止、命令や善悪判断が支配的な生活空間のことであり、快楽原則はあるがままの感情、欲動などを受容する生活空間といえる。人間は誰しも、快く楽しいものを求め、反対に不快なもの、苦しいものを避ける傾向があるが、実際の生活では快楽原則に従ってばかりはいられない。現実原則に従って生きることで、外の世界とうまくやっていける、というのが一般的な説明である。

 

 現代でも、この説明は一般的には妥当するように思う。いつまでも子供のようなわがままな振舞いは、社会に許容されないということである。ただし、・・・・・・・・快楽原則は現実原則によって修正されていくこのプロセスが崩壊しつつあるのではないか、という気がわたしはしている。ユーチューバーなどがその例である。規範などに拘束されなくとも、収入を得られるようになってきた。つまり単に「人に注目されていれば」生きていけるようになってきた。犯罪にならない限りに、人に注目されさえすれば、それが収入につながり、生きていけるようになった。極端な話、人気さえあれば、人格は問わないということになる。

 

 最近、ささいなことで簡単に人を殺めるような信じられない事件が起こるが、あれは「現実原則」が緩くなり、「快楽原則」を抑えられなくなったことが原因ではないかと感じている。

 

(参考)

・人生は石材なり。神の姿を彫るも悪魔の姿を彫るも、各自の心のままだ(ヘルベルト・スペンサー)

 

・自己のない人は砂漠の砂のように、蜉蝣のように、風の吹きまわし次第でどこへ行ってしまうかわからない(本多秋五 「志賀直哉」より)

 

・人間にもっとも災禍をもたらすものは人間なり(G・P・S・プリニウス 「自然史」より)