








「日本人らしさ」とは何か?わたしは、司法書士として、日々様々な人から相談や依頼を受けるが、「日本人らしさ」を感じたことがない。日本人固有の性質である。中国との関係悪化で、多くの日本人が「日本・高市正しい!!」と叫んでいるようであるが、日本人の、例えば、中国人、韓国人、アメリカ人等と異なる特徴とはなんであろうか???
ネットで調べると、AIがこんな情報を提供してくれた。
「日本人らしさ」とは、礼儀正しさ、勤勉さ、協調性、他者への思いやりなどを核としつつ、「和を重んじる」「空気を読む」「謙虚さ」「清潔さ」「時間に正確」といった行動様式や、「わびさび」「一期一会」といった美意識や精神性が複合的に結びついた概念です。歴史や風土、自然との関わりの中で育まれ、時代や個人によって捉え方は様々ですが、「他者に迷惑をかけない」意識や、「おもてなし」の精神に代表される繊細な気配りが特徴とされます。
はっ??????今の日本人は、こんなんじゃないですよね?????????昔話や古文に出てくる日本人じゃないですか????この日本人らしさって。SNSやネット上で、卑怯なる立ち居振る舞いをするのが、今の大部分の日本人でしょう???匿名になれば、散々失言者をたたきまくり、自分の意見と相違する者を非難しまくり、もはや「事理弁識能力なき発狂者」のようなアリサマ。
「武士道」(新渡戸稲造著)の第7章に「誠」について書かれている箇所があります。日本人の古来の「日本人らしさ」を感じとることができると思います。少し引用します。
・真実と誠実なくしては、礼儀は茶番であり芝居である。
・孔子は「中庸」において誠を崇び、これに超自然力を賦与してほとんど神と同視した。曰く、「誠は物の終始なり、誠ならざれば物なし」と。彼はさらに誠の博厚にして悠久たる性質、動かずして変化を作り、無為にして目的を達成する力について、滔々と述べている。「誠」という漢字は「言」と「成」との結合であり、人をして新プラトン学派のロゴス説との類似を思わしむるものがあるーかかる高きにまで、孔子はその非凡なる神秘的飛翔をもって達したのであった。
・虚言遁辞はともに卑怯と見做された。武士の高き社会的地位は、百姓町人よりも高き信実の標準を要求した。
(※遁辞(とんじ):責任などをのがれようとして言う言葉。逃げ口上(こうじょう)。)
・武士は然諾(ぜんたく)を重んじ、その約束は一般に証書によらずして結ばれかつ履行せられた。証文を書くことは、彼の品位に適わしくないと考えられた。「二言」すなわち二枚舌をば、死によって償いたる多くの物語が伝わっている。
(※然諾(ぜんたく):一度承知したことは、約束を守って、必ず実行する。)
この章には、欧米からもたらされた商業道徳が、当時の武士たちとは相容れない道徳・慣習であり、封建制度が廃止された後、武士が秩禄の代わりに公債を与えられ、それを元手に商売・事業をはじめたが、失敗する者が続出したことを、次の言葉で表現されている。
☆アメリカのごとき実業国にありてさえ実業家の八十パーセントは失敗するということだから、実業に就きし武士にして新職業に成功せし者が百人中辛うじて一人であっても、驚くに足りぬではないか。武士道の道徳を商取引に適用せんとの試みにおいて幾何(いくばく)の財産が破滅したかを認めるには、時を要するであろう。しかしながら富の道は名誉の道ではないことは、誰が観てもすぐに解った。
明治初年は1868年である。ここから157年後の日本が、現在の2025年・令和7年の日本である。この157年の間に、おそらく、日本人を日本人たらしめた民族性は消滅してしまった。美徳も道徳も美意識も。残っているのは、普段はなんらの「誠」すら実践生活で体現できなくなった中身が形骸化した「日本人」の意識の中に僅かに残る「かつての日本人らしい日本人の幻影」である。
わたしの事務所には日本人も来るが、時折、中国人などの外国人も来る。相談や依頼を受けつつ彼らと会話をするが、日本人とそれ以外の国の人との差など、言語以外には何もない。ましてや、盲目的に日本人だから優れているというような要素は、何ひとつない。あるいは、日本人だから善良であり、外国人だからそうではないという事実は何ひとつない。わたしは、秋田の田舎出身だが、昔の田舎には、人柄が良く、正直で、他者を思いやり、損得勘定を持たず、人付き合いができる上記の日本人らしさを持った日本人が少なからずいた。しかし、少なくとも、こうして司法書士をやるようになって、埼玉や東京の人間と関わっていて、そういう日本人らしい日本人とは会った記憶がない。こういう都市部では、抜かりが無くては生きてはいけないので仕方がないのだろうが、このザマで「日本が!日本が!」と叫んでいる日本人のアタマの中は一体どうなっているのか?SNSやネット上で喚き散らしている日本人は、決して日本人らしくはないと思う。本来の日本人は、ああいう卑怯なマネはしないからである。
わたしは、若い頃から、好きな言葉をノートに書いて時折見返す習慣があります。19歳の時からはじめた習慣です。今みたいにSNSなんか無い時代です。ユーチューブもない。そんな時代に、自分を励まして支えてくれたのが、「先人の言葉」でした。司法書士試験の受験生時代には、毎朝読んでいた記憶があります。
わたしは、どういうわけか、勉強や試験勉強に関しては、一緒に勉強する仲間がいたり、あるいは親や教師から期待されて、そういう期待に応えたくて頑張ったなんていう時代がありません。司法書士試験の受験生時代は、秋田の田舎で独学で勉強。受験仲間は0人。受験機関もない。高校時代は、勉強は頑張ってやっていましたが、まあ普通。で、第一志望大学は京都大学・教育学部だったのですが、落っこちて横浜国立大学・教育人間科学部・国際共生社会課程という「学問面ではパッとしない大学・学部・課程」に入学したものの、目指した学問ができずに、心が折れて、勝手に自主退学。
こんなんなので、勉強面、学問面に関しては、ほぼ全部独りで頑張ってやってきました。誰も励ましてもくれない。期待してもくれない。ただ、京大は落っこちましたけど、模試なんかでは、ちゃんとそれなりの成績は取れていたので、学力的にはそんなに劣ってはいなかったはずだと思っています。若い頃はこんなんでした。こういう状態でしたが、勉強だけは続けていました。本もバカみたいに読みました。21、22歳くらいの時、アパートの本をブックオフに買い取りに来てもらったら、2000~3000冊くらいありましたから。全部、大学教授とか学者が書いた本です。心理学系の書籍が多かった気がします。
わたしは、勉強面や試験勉強面では、常に孤立奮闘状態でした。今もです。わたしが、同業の司法書士たちと群れないのは、彼らとは、上記に書いた通り「バックグランド」が全然違うので、もってる知識も知識量も種類も全然違うからです。職業は同じでもアタマの中身が違うので、意見が一致することがあまりない。司法書士は、わたしの社会的な職業であって、わたしの性格・人格・考え方とはあまり関係がない。わたしが興味があるのは、人間そのものだからです。他の司法書士は、「売り上げ」ぐらいにしか興味がない。ほとんどが決済業務、相続業務、後見、各種登記業務ぐらいでしょうか。ヘタをすると六法すら引けないのがゴロゴロいる。予備校とか受験機関のテキストしか読まないで受かったのは、法律をバラバラの状態で読んで、考える能力がない。わたしは法律すら独学。誰も教えてはくれなかった。
で、わたしの経歴はこんな感じなのですが、こういう生き方ができたのは、わたしにある種の「才能」があったからだと思います。で、この「才能」は、人間であれば誰でもみんな持ちうる「能力」なはずです。将棋の羽生善治さんが、このことを言葉にして表現してくれています。
☆何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれない所で、同じ(情熱・気力・モチベーション)を持って、継続しているのは非常に大変な事であり、私はそれこそが才能だと思っている。(羽生善治)
つまり、なにか目標なり、目指す方向性があるのであれば、結果がでようがでまいが、努力が報われようが報われなかろうが、常に同じ情熱・気力・モチベーションを維持して継続することが大事であって、こういう態度を貫けることを「才能」だと言ってるんだと思います。
だからね。野党国会議員のみなさま。このままでは、たったひとりのよく分からない政治家:高市早苗に日本が壊されてしまうぜ。それでもいいのか??????嫌なら、気合と根性でなんとかせんかい!!!!!SNSで非難・中傷されるのがいやだ??????・・・・・・・そんな、軟弱な精神であれば、国会議員なんかやめてしまえ!!!!!!!(▼皿▼)自分が非難されるのと、日本が壊されるのを黙って見ているのと、どっちを選ぶんだい?????おい( ̄○ ̄)トトロの作者の言葉他、いくつか言葉贈ります。
☆理想を失わない
現実主義者にならないといけないんです。
理想のない
現実主義者ならいくらでもいるんですよ。(宮崎駿)
☆世慣れして、要領のいい立ち回りを覚えたら、もうだめです。平凡な人間でも、必死に努力したものが勝ちです。一生懸命やれば必ず報われる、と私は信じています。(大鵬)
☆自ら省みて縮(なお)くんば千万人と雖も我行かん。(孟子)
(⇒意味:反省してみて自分の考えや行動が正しいと確信したら、敵がたとえ千万人いたとしても、恐れずに立ち向かっていく決意を表している。)
