「人生論ノート」(三木清)をパラパラ巡っていたら、「高市総理」のことが書いてありました。引用します。

〈懐疑について〉
いずれにしても確かなことは、懐疑が特に人間的なものであるということである。神には懐疑はないであろう、また動物にも懐疑はないであろう。懐疑は天使でもなく獣でもない人間に固有なものである。人間は知性によって動物にまさるといわれるならば、それは懐疑によって特色附けられることができるであろう。実際、多少とも懐疑的でないような知性人があろうか。そして独断家は或る場合には天使の如く見え、或る場合には獣の如く見えないであろうか。人間的な知性の自由はさしあたり懐疑のうちにある。
〈真の懐疑家と独断家について〉
真の懐疑家は論理を追求する。しかるに独断家は全く論証しないか、ただ形式的に論証するのみである。独断家は甚だしばしば敗北主義者、知性の敗北者である。彼(彼女)は外見に現われるほど決して強くはない、彼(彼女)は他人に対しても強がらねばならぬ必要を感じるほど弱いのである。
ひとは敗北主義から独断家になる。またひとは絶望から独断家になる。絶望と懐疑とは同じではない。ただ知性の加わる場合にのみ絶望は懐疑に変り得るのであるが、これは想像されるように容易なことではない。
〈不確実なもの、確実なもの〉
不確実なものが根源であり、確実なものは目的である。すべて確実なものは形成されたものであり、結果であって、端初としての原理は不確実なものである。懐疑は根源への関係附けである。理論家が懐疑的であるのに対して実践家は独断的であり、動機論者が懐疑家であるのに対して結果論者は独断家であるというのがつねであることは、これに依るのである。しかし独断も懐疑も共に方法であるべきことを理解しなければならぬ。
(私なりのまとめ:)高市総理は独断家である。よって、ときに天使に見え、ときには獣にみえる。人間の知性の自由は、懐疑のうちにある。真の懐疑家は論理を追求する。しかし、独断家は全く論証しないか、ただ形式的に論証するのみである。ひとは敗北主義から独断家になる。またひとは絶望から独断家になる。知性の敗北者である。独断と懐疑とは同じではない。ただ知性の加わる場合にのみ絶望は懐疑に変り得るのであるが、これは想像されるように、容易なことではない。彼女は外見に現われるほど決して強くはない。他人に対しても強がらねばならぬ必要を感じるほど弱いのである。独断も懐疑も共に方法であるべきことを理解しなければならぬ。最大の違いは、前者の方法をとる者は、知性が乏しいか欠如しているということである。

上記の記事はわたしが11月に書いたブログのコピペである。
さて。高市自民が勝ちそうな情勢だという話である。いくら言っても、「懐疑することができない日本国民」は、まあこんなもんなんだろうなと、冷たい感情で同じ日本国民のことを想っている。
わたしは、司法書士で、おそらく普通の仕事をしている人より、深く人間というものと向き合っている。と思う。わたしは、単なる業者相手の登記屋さんではないので、依頼者・相談者とガチで向き合う。
よく思う。ほとんどの人は、何も勉強してないし、自分のアタマで考えないし、自分の責任で人生を歩もうとはしてない、と。90%以上がそういう人なのではないかと思う。いくら有名大学を出ていてもダメみたいである。同じ司法書士でも、たいていは業者相手や特定の儲かる分野の定型業務しかやらないのがほとんどだから、わたしのようなタイプは激レアである。みんな「社会的にお利口さん」なのである。利害が絡まず、責任が生じないことには無関心である。
今の人は、せいぜいネットを検索して、「正解」や「選択肢」を探し回るだけである。自分のアタマで考えて、行動することなど、おそらくない。与えられた選択肢の中から、合理的でコスパやタイパが良いものを選択していくのが人生だと思っているようである。「既成プラモデルみたいな人生」である。パーツや設計図は、ネット任せ、人任せで、自分はその枠内でうまく立ちまわるだけ。既製品を組み立てるだけ。自分の生活に不快なところがあれば、政治のせい、役所のせい、社会のせい、誰かさんのせい、たぶんこういう思考回路なのであろう。
こんなんだから、高市早苗みたいな中身のないサイコ女の甘言にあっさり騙されるのである。
いいかい???権力者になど、バカでもアホとでもいくらでも品位のない言葉をぶつけてもいいのである。一般人に対する作法と違っていいのである。そもそも持っている社会的な力が全然違うのである。あんなに暴走した権力者に、一般人がバカだのマヌケと言ってなにが問題だというのだ??????権力者に対する言論の自由!!でおしまいである。
SNS困惑、ネット悲鳴、ネット困惑、ネット非難・・・・・一体、どこのなんという人物が、困惑したり、悲鳴あげたり、非難しているか言ってみてくれないか??????????となり家の愛ちゃんか?向かいの家のじいさんか?同級生のひとみちゃんか??????いったい誰だ???????日本は戸籍制度もしっかりしているから、住所も名前も所属する組織もみんな持っているはずなのだ。であれば、自分の名前を出して、自分の意見として情報を発信すべきであろうが??????一体誰が、そんなことを言っているのだ?????????????????????????そんなよくわからんもんから批判されるのが怖いのか???????????????????????
心配ない。いざとなったら、スマホを沸騰した鍋の中に放り込めば一瞬で問題は解決する( *´艸`)
「懐疑することができない日本国民」。たいへん憂鬱である。都合の良い時は、「高市さん頑張って!!」で、結果が出せずに支持率が下がれば、「高市に騙された!!!!」と叫ぶのであろう。アタマは一体どうなっているのであろうか:;(∩´﹏`∩);:自分で蒔いた種だという認識などないのであろう:;(∩´﹏`∩);:悪いのは全部、政治のせい、他人のせい、社会のせい。いやな国になったものである。
(参考)
三木 清(1897-1945)は、京都学派の哲学者。京大哲学科卒。西田幾多郎・ハイデガーに師事。