大河ドラマは例年、放映した年内に総集編がありますが、「麒麟がくる」の総集編は一日での放映でした。これも異例ですよね。
今回の大河ドラマで知ったのは、鞆に室町幕府があったということです。多分、今までのドラマでも足利義昭が、信長討伐の勅書を戦国大名に送っていたのを記憶しているので、その地が鞆だったことを意識できていなかったんだと思います。
鞆の浦 歴史民俗資料館で、こんなパンフを作っておりました。上が入場券の半券で150円。高校生以下は無料でした。
鞆の浦 歴史民俗資料館は、少し小高いところに建てられているので、そこからの風景がまた良いです。
正面に見えているのは、玉津島です。島なんですが、堤防で陸続きになってます。
「麒麟がくる」で、本能寺の変を決意するワンシーンです。十兵衛が見ているのは。。。。。。
義昭のいる鞆の地図です。鞆の浦とは言わずに、鞆と呼んでいたようです。備後(びんご)は今の広島県の東部です。
義昭討伐(殺害)を命じられた心境を映し出しています。
上のパンフの最終ページですが、本能寺の変の動機が「・・・・・・。複合的な要素が絡み合っていたものと考えられますが、鞆幕府の影響もあったと推測できます。」と書かれています。
正直、館内の展示ではそれほど義昭や鞆幕府を強く感じるものはなかったのですが、義昭が鞆で棲んだ数か所の地図はありました。
このパンフにその地図があるのかと思ったら、その情報はなく、また現地では撮影禁止でしたので記憶のみになります。鞆の浦 歴史民俗資料館のすぐ近くにも棲んでいたようで、その他には鞆にあるいくつかの神社仏閣で暮らしたようです。そして、義昭は、秀吉の時代になってまた京都に帰ったようです。
今回の大河での十兵衛の人物像をそのまま”良い人”と考えると、やはり納得できない状況が、
1)信長は、どうしてそこまで、良い人である十兵衛に無理難題を言いつけていたのか? もう少し可愛がってもよさそうなのに。
→ やはり、鼻につく性格や行動があったのでは?
2)盟友として描かれていた細川藤孝と筒井順慶は天下が十兵衛に流れる可能性もありながら、いとも簡単に十兵衛の見方になってほしいという要請を断ったのか? 断って動かなかったどころか、あっさりと秀吉について十兵衛討伐に動いてますし、確か、藤孝は事前に秀吉に、本能寺の変を知らせる文を出していませんでしたっけ? これって、かなりやばい描写ですよね。。。。。
→ 結局は、人望がなかったということなのでは?