《コロナと共生 302


2024年3月4



『炭鉱の崎戸町蠣浦郷(さきとちょうかきのうらごう)母生まる島の食堂今塩の島 滉坊』



午前10時半に11度!

午後2時半に14度!

午後8時半に9度!

 

    

『源平の桃咲き迎え百足射ち右衛門桜に将門淘汰(俵の藤太 藤原秀郷) 滉坊』



先日お亡くなりになった篠山紀信さんの御実家柏木の「円照寺」は山門前の桃の花は源平咲きで見事でやす!


此れから「枝下桜に右衛門桜」が咲きやす!


「瀬田の唐橋の大蛇に頼まれ、三上山の百足を退治」して名を上げ、平将門を討った「俵の藤太 藤原秀郷」が建てた円照寺でやした!



『新三人吉三』


《天明の大飢饉(1782年~1787年)と寛政の改革(1787年~1793年)》


「行徳 ぎょうとく」とは坊さんの名みてえだと思っておりやしたら、「備後」でやした!


室町時代に徳を積んだ修験者が、村人から「行徳様」と呼ばれてたそうでやす!


「行徳千軒寺百軒」と言われるほど信仰心が厚い村だったのだとか?



未来予想図では、行徳は市川から荒川放水路以南を呼びやすが、当時は荒川放水路は御座いやせんで、今から百年一寸前大正時代に出来やした!


其れまでは、浦安・当代島(とうだいじま)北栄(きたさかえ)猫実(ねこざね)堀江富士見)と船橋市沿岸部及び東京都江戸川東篠崎を指す「本行徳」を中心とした広域地名で御座いやした!



奈良時代に製塩が始まり、平安時代には税と同等の価値を得て、戦国時代には大切な収入源になり、江戸時代には徳川家康の政策に依って、隆盛を極める(行徳塩田)でやした!


戦国時代には、行徳七浜と呼ばれる、塩づくりで生計を立てる7つの村(稲荷木、大和田、田尻、高谷、河原、妙典、本行徳)が出来、中でも「行徳」は江戸湾岸における最大の塩の生産地になりやした!



この地を支配していた小田原の北条氏に、塩を年貢として納めておりやした!