《コロナと共生 250》
2024年1月12日
朝8時に零度!
10時半に7度!
正午に10度!
午後1時半に13度!
2時半に14度!
三月並みの気温だったとか?
『新三人吉三』
《天明の大飢饉(1782年~1787年)と寛政の改革(1787年~1793年)》
神田川に架かる百四十の橋について書いておりやす!
百四十番目最後の「柳橋 やなぎばし」は、元禄年間(1698年)に初めて架橋されやした!
「一富士二鷹三茄子」と申しやすが、「一に富士、二に鷹の羽の打ち違い、三に上野の春に花は散るらん」と言う三代仇討が御座いやす!
一富士は曽我兄弟の仇討!
二つ目の鷹の羽の打ち違いは、浅野家の家紋で、赤穂浪士の仇討でやす!
三つ目は伊賀上野の荒木又右衛門でやす!
赤穂浪士も「柳橋」を渡ったかと思いやしたが、本所松坂町から泉岳寺まで舟を使わず歩きでやした!
時は元禄15年(1702年)12月14日寅の刻(午前4時頃)、火事装束に身をかためた赤穂浪士四十七士が、本所「吉良邸」に討ち入り、本懐を遂げた浪士達は、降り積もった雪を踏みしめながら、未明の江戸の街を三里歩き通しやした!
一ノ橋・萬年橋・清洲橋・永代橋を渡ったようでやす!
先日水天宮で食事をした際に通った浜町や中川船番所、芭蕉記念館辺りも、赤穂義士達は雪を踏み締め、登り下りに薄明の陽射しを求めながら、泉岳寺の旧主の墓前に吉良上野介の首を供えやした!
江戸時代には「浅草橋」と「柳橋」の間の河岸が遊郭で有名な吉原に通う「猪牙舟 ちょきふね」など様々な舟遊びの場となり、周辺には船宿や料理屋が並んでおりやした!
「河岸 かし」とは、河川・運河・湖・沼の岸に作られた港や船着場のことでやす!
でやすが、江戸時代には河岸に問屋を商う商人やその蔵が集まって集落をなしたことから、広い意味で、町・村そのものも「河岸」と呼んでおりやした!
柳橋は、そのような河岸の一つとなり発展しやした!