《袴垂保輔 尾上菊五郎》


日本の盗賊として、最も古くは《物部氏永》の名が御座いますが、資料不足で御紹介が叶いませんでした(゜∇^d)!!

続いて袴垂(はかまだれ=藤原南家の藤原保輔)の名が御座いました!

藤原保輔は、官人として右兵衛尉(うひょうえのじょう=武官?)・右馬助(うまのすけ=馬の世話?)・右京亮(うきょうのすけ=刑事?)を歴任しましたが、盗賊としての方が有名です❗

『尊卑分脈』でも
「強盗の張本、本朝第一の武略、追討の宣旨を蒙ること十五度」記されております❗

先ず皆様にはお読みになれないでしょうね(≧∇≦)

「強盗の張本人で、日本でも飛び抜けてずる賢い駆け引き上手、指名手配に於いては15回、15枚の手配書が出回っております❗」
と言ったところでしょうか?

すなわち「右馬助、正五位、右京亮、右兵衛、強盗張本、本朝第一武略、蒙追討宣旨事十五度、後禁獄自害」。

正五位とそこそこの位で、刑事まで勤めた男が、実は大泥棒だったと言う事のようですなぁ(。´Д⊂)

寛和元年(985年)、源雅信の土御門殿で開かれた大饗において、藤原季孝に対する傷害事件を起こし、さらに、以前に兄の藤原斉明を追捕した検非違使・源忠良を射殺しました❗

永延2年(988年)閏5月には、藤原景斉・茜是茂の屋敷への強盗を行うなどの罪を重ね、これらの罪状により、保輔に対する捜索は続けられ、朝廷より保輔を追捕した者には懸賞金が掛けられました❗

さらには父・致忠が検非違使に連行・監禁され、この状況に危機感を持った保輔は同年6月14日に北花園寺で剃髪・出家しましたが、まもなく以前の手下であった足羽忠信によって捕らえられました!

なお、逮捕の際、保輔は自らの腹部を刀で傷つけ腸を引きずり出して自害を図り、翌日その傷がもとで獄中で没したそうです❗

なお、これは記録に残る日本最古の切腹の事例で、以降武士の自殺の手段として切腹が用いられるようになったという話で御座います❗

後世『今昔物語集』などに見える盗賊の袴垂(はかまだれ)と同一視され、袴垂保輔という伝説的人物と為りました❗


《白袴下に押し下げ腹を切る=Push down under my white hakama skirt for perform harakiri❕》

三島由紀夫さんの場合は《白袴》が《白褌》に代わります❗

《Push down under his white loincloth(褌)for perform harakiri❕》


『今昔物語』『宇治拾遺物語』では袴垂というあざなのみです。

『続古事談』ではじめて袴垂保輔とあり、「元方の民部卿の孫、致忠朝臣ノ子也」とある。

因みに私の二つ名は「元方の沖仲仕の市五郎曾孫《褌垂安透=ふんどし垂れ安くてスケルトン》健市平民ノ子也」とあい為りまする❕
何卒お見知り置き下さいませm(._.)m