《モンゴル帝国の交通網》

モンゴル帝国のもとでは、ユーラシア大陸の殆どを統治しゃあして、治安が安定しゃあして、内陸部の駅伝制(ジャムチ)や大運河、沿岸部の海運などの交通網が発達しゃあしたよ!

そのため東西交易が陸路、海路ともに活発になりゃあして、経済が発展して紙幣として交鈔も用いられるようになりゃあしたよ!

東西貿易では色目人と言われた西方出身の人々が活躍しゃあして、広州・泉州や広州にはムスリム商人が来航して東南アジアやインド洋方面との南海貿易を活発に行っていたちょうよ!

《ムスリム商人》と何度も出てきゃあしたが、果たして何人の方々がお分かりきゃあも?

《ムスリム商人》
 ムスリム商人とは、イスラームの商人の事じゃで!
彼等の活動範囲が広がることによって、それぞれの地域でイスラーム教に改宗する者も増え、イスラーム圏が拡大していったちょうよ!

その際、現地の人々がイスラーム教を受け入れる際には、アラビア語の理解が無くとも感覚的にアッラーと一体感を得られるとする《スーフィズム=イスラーム神秘主義》が有効であったちょうよ!

仏教に喩えりゃあすと《念仏踊り》みたいなもんじゃろう?

ムスリム商人の仲介するルートは、8世紀中頃のアッバース朝の成立によりアレクサンドリア-ダマスクス-バグダードを経由し、バスラからペルシア湾を通ってアラビア海に出るペルシア湾ルートが成立しちょった。

この交易ルートを軸に、さらにアフリカ内陸でのサハラ交易・中央アジア内陸への陸路と、インド洋・南シナ海などの海路でそのルートを開拓していったちょうよ!

フビライの積極的な遠征も、このような商業圏の拡大を求めたという面もありゃあすよ!

また元朝の国内の農村では、宋代以来の郷村のなかの漢人の大土地所有者が成長しており、経済活動を支えていたちょうよ!

それと同時に元の駅伝制《ジャムチ》は、整えられたちょうよ!

【オゴタイ=ハンが1229年に制度化したモンゴル帝国(および元)の交通通信網でありゃあして、モンゴル語でジャムチ(漢字で站赤と書く)と云いやすよ!

ジャムが「道」や「駅」を意味し、チは接尾語で「人」の意味なので、ジャムチとは「駅に携わる人」の意味でありゃあすよ!

一般に駅伝制と訳されちょうが、站赤の站(たん)は駅と同じ意味で、主要道路に10里ごとにおかれる宿駅のことじゃで。

宿駅には100戸の站戸(たんこ)が属し、人馬を提供した。駅伝を利用するのは公用の旅行者は、通行手形として牌符(パイザ)を携行したちょうよ!】