本当によく晴れている。ここ最近の梅雨空が嘘のようだ。今朝はまだ日も高くない時間からずいぶん蒸し暑く、押し付けてくるような圧力の強い日の光が実に疎ましかった。一年が廻って、また私の苦手な季節が近づいて来ているようだ。まだ今はその姿は遠くにあるようだが、一つか二つの嵐が通り過ぎる頃には知らぬ間に目の前に立っていることだろう。毎年思うことだが、この太陽の季節が本当に心底恨めしい。
昨日までの雨でまだ地面はしっとりと濡れていた。今朝の強い日の光に温められて、濡れた地面からは何とも心地のよい香りが立ち上っていた。木々の緑もこころなしかいっそう瑞々しくなったように見えて、まるで葉の一枚一枚が輝いているように見えた。木の樹皮やその根本などに生えている苔も、たっぷりと水を得てその緑をいっそう鮮やかにしていた。この間話した小道に植えられている百合の花が、今朝見たときに一輪だけオレンジ色の花を開いていた。毎朝見ていたつもりだったが、いつの間に蕾をつけていたのか全く気がつかなかった。今はまだ一輪だけだが、しばらくすればその辺り一面にたくさんの花を咲かせるだろう。
それにしてもこの携帯、漢字を知らな過ぎる。いや、正しくは言葉を知らな過ぎる。漢字自体は仏典でしか使われないようなものまで入っているくらいなのだが、日常的に使うようなごく簡単な言葉が全く出てこない。語彙の乏しさの程度では小学生並である。
先のこともそうだが、何よりこの携帯が私を苛々させるのは、その文節の認識の悪さと、認識した文節を漢字変換する際に提示してくるその優先順位である。そもそも文節の認識がでたらめなのだが、そのでたらめな文節にあててくる漢字がさらに目茶苦茶なのである。一体それは何だと言いたくなるような当て字を提示してくるのだ。それにどうにも解せないところだが、何故だかこの携帯の日本語ソフトは、自分の知らない音にたいしては、それを名前として認識するようなところがあって、そうした音に源氏名のような妙な漢字をあててくる。どうにも困ったことである。どうにかならないものかと思っているのだが、いつまでたってもソフトのバージョンを上げる様子がないので、おそらく多分今後一年半の間、このどうにも馬鹿な携帯に付き合ってゆくことになりそうである。
メーカー名を挙げると匿名の誹謗中傷になってしまうのでそれはしない。しかし、今現在業績の良いこのメーカーも、決して企業の規模も技術的な地盤も脆弱とまでは言わないが豊かとまでは言えないところがあるので、こうしたところにそういう未熟な部分が出て来るのだろうと思う。
以前使っていた携帯は、今からもう四年以上前のものだったが、搭載されていた日本語ソフトはかなり優秀なものだった。何より奇妙奇天烈な文節の区切りをすることなどは極めて稀だった。用意されている漢字の数は今のものよりずっと少なかったが、それで十分事は足りていた。やはり自前でハードもソフトも製造、開発できるメーカーは技術的な地力というものを備えているように思える。
これほどお粗末とは私も思わなかったので、デザインを優先してこれを選択してしまったが、次からはそうしたことも考慮に入れなければなるまい。それにしてもこれほどお粗末とは思いもしなかった。
こうしたことは人間の場合にも通じるところがあるであろうように思う。やり手のように見えて、また周囲からもそのように見られて得意になっているような人間が世間には少なくないものだ。もちろんその中でも本物の人物は多くいるし、そうした者は周囲の人間の度肝を抜くようなことを平気でやってのけることの出来る豪胆なところがあるのが常である。そうした人物は、多少色々と鼻につくようなところがあったとしても、その立ち回りは見ていて小気味よいものである。しかし、なかには偽ものもいて、借りものの思想、小手先の付け焼き刃な技術で運よく成り上がった者が、口先で知ったようなことを言って得意になっているのをよく見かけることがある。しかし、たいていそうした者は、時期がくれば早々に鍍金が剥がれて、見苦しく崩れ去ってゆくものである。
どのような者もこの世の不幸からは逃れることが出来ないものである。しかし本物の者は不幸にあった時、その心の底にある覚悟や、その心の直さというものが、我とは知らず表に現れてくるもののようである。たとえその結果が自分が思ったような結果にはならず何かを失うようなことになっても、その姿は全く潔く、実に清々しいものである。
人の本質というものは、平時においては知ることが難しいという。全く私もその通りであろうと思う。普段はおどおどして頼りなかった者が、いざという時に鋼の意志を見せるときがある。また、皆に一目置かれ、ちやほやと持て囃されていた者が、その時になると途端に見苦しい言い逃れを始め、揚句そそくさと逃げ出すようなこともまた多くあるものだ。私は八十、九十まで生きた老人ではないが、そんな若輩者の私でさえ、そうした者をこの目で多く見てきたものである。全く、人の本質というものはいざその時という場面にならなければなかなか分からないことが多い。実に目に見えにくいものである。もしそれがあらかじめ分かるようであれば、世間に多く見られるような、徒歩で歩くべき者が馬に乗っている姿をその目に見ることなどもないであろう。しかし思い返してみると、たいていは裸足で歩くべきである者が、随分長い間鞍に座していたということに後から気がつく場合が実に多いものである。
そうしたことから、私は成功の唯中にいる人物の話す言葉は、言葉は悪いが話半分にして聞くように心掛けている。少なくともよくよく注意して慎重に聞くようにしている。人は成功の栄光に包まれている時は何とでも言うものだし、それを聞く周りの者も、ごもっともとばかりに唯々平伏して聞くばかりであるため、それを語る者もついいい気分になって、自分が会得した本来の真理から遠ざかってしまうこともしばしばだからだ。思い返してみれば、ほんの五年ほど遡っただけでもその例は実に多いものだ。しかし、そうした言葉を成功者の金言としてやたらと有り難がって聞こうとする風潮が蔓延しているようだ。私にはまるでこれが金と成功の神に仕える教皇の説教、拝金主義の法話のように見えてならないのである。
物事を志して成功するのは立派で喜ばしいことである。それを成すために流した汗も涙も、数多の苦労も尊いものである。しかし、同じように物事を志しても成功しなかったというだけで、それらが成功したものより劣っているなどと何故言えるのだろうか。盛衰と善悪は別であるというが、私もそのように思う。少なくとも、これらふたつは等しいものではないと思うのである。が、今の社会においては、これら二つはことさら同じものであるかのように見られ、また、これら二つを是非とも同じものと見なければ済まされないような状態にされているようだ。頓挫したものが本来は良かったのだと言うとそう思わないという者は多いものだが、逆に、栄えていたとしても、それが必ずしも良いものとは言えないと言い換えればこの事はよく理解できるはずである。が、そういった見方は今の世にあっては許されないことであるようだ。何故なら、何よりも成功こそが彼等にとっては至上の価値なのである。
そうした成功者の話は得るものも多いだろうと思う。それは私も大いに認め、理解するところだ。しかし、苦難の唯中にあっても逃げ出さない人物の行動や言葉には、成功者の言葉にはない真理が多く含まれているものだ。
私もそうした本物でありたいと切に思うものだ。何と言っても偽物として一生を終えるのは誰でも口惜しいものではないか。
それはそうと、この後もずっと携帯の辞書への単語の登録作業は続くだろう。全く厄介な話だが、それをやらなければ使いにくいことこの上ない状態なのでどうにも仕方がない。
しかし、よくこのようなソフトで文章を書けるものだなと思う。断然語彙に不足すると思われるのだが。