なかなか寒くなりきらない季節だが、会社の行き帰りに見る桜の木の葉の中に、ちらほらと枯葉が目立つようになっている。他にも、いつも見上げるハナミズキの葉にもかなり枯れ色が見えるようになった。たとえ寒くならなくても季節はめぐり時は過ぎる。風邪はもうほとんど治ったといっていい。時々まるで思い出したように咳が出ることはあるが、あれほど痛かった喉の痛みもないし、ほとんど一日で一箱使い切ってしまうような勢いで出ていた鼻水も、もうほとんど出ない。今回はなんとか薬を使用せずに直せたようだ。


私は最近かなり無気力だった。とにかく何もする気が起きなかったのだ。頭の奥のほうがぼうっとして、体全体がなんとなくだるくて、一週間というサイクルがかなりのスピードで過ぎていったような感じだ。光陰矢のごとしというが、まったくもったいないことだと思う。



1年位前から私は約10年続けてきた画風を変えたいと思うようになっていた。きっかけは特にない。いや、ひょっとしたらあるかもしれないな。なにせ、関西から関東へと生活の場をがらりと変えたわけだから。しかし、それでも今述べたことが第一義的な理由ではない。なんとも上手く表現できないが、なんというかこう、今の私の体にはそれまでのスタイルが窮屈になったのだ。そう、例えるなら脱皮だ。甲殻類や蛇なんかがやるあの脱皮に似ている。蛹から蝶へという変身ではなくて、脱皮なのだ。自らの定めたスタイルに自分自身が納まりきらなくなっているような感じなのだ。


私はそのスタイルに落ち着く前、かなりメッセージ性の強い作風だった。自分の作り出す作品によって何かを伝えようとしているようなところがあった。いや、むしろそうでなければならない、ぜひともそうでなければといったところがあった。やたらと頭でっかちで、理屈で作品を作り上げているような輩の仲間だった。しかし、ふと私はそうしたことに虚しさを覚えるようになった。見るもの全てが美しくなく、素晴らしくもなく、魅力もない、美術評論家が好んで使うような理屈や語彙、ありきたりのうそさぶい文言で作り上げられたもののように見えて、馬鹿らしくなってしまったのだ。まるで、そいつらにいいように弄ばれているような感じがしたのである。その為、私はそれまでのスタイルをすっかり捨ててしまった。


私は美しいものが描きたいと思った。どれだけ時間が流れても普遍的な価値を持つような、まるで絵の具でできた宝石のような絵を描きたいと思うようになった。フェルメールの作品のように、どれほど時間が流れても輝きを失わない、宝石のような絵を自分の手で描きたいと思ったのだ。それでたどり着いたのが今の作風だ。


フェルメールのような永遠の輝きを描きたいというのは今も変わらない。しかし、少し考え方が変わってきたのだ。何よりも自由に描きたいのだ。こんなこともできる、あんなこともできると楽しんで描いていたときのように自由に描きたくなったのだ。規則や理論、法則などに依らず、自由な色や線、形態の中に永遠の輝きを宿らせたいと思うようになったのだ。きわめて漠然としたものだが、何にしても、今までのように何かに則って作品を作りたくはなくなったのだ。


私は有名デザイナーじゃない。白髪の大画伯でもない。何の立場もない男だ。

それなら何を恐れる必要などあるものか。誰に遠慮がいるものか。

絵描きの最後などたかだか知れているじゃないか。

成功しても死ぬ、失敗しても死ぬ。結果なんて打っちゃっておけ。