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「世界の広さを知ったことは、自分を解放し気持ちをホッとさせた。僕が暮らしているここだけが世界ではない。さまざまな人々がそれぞれの価値観を持ち、遠い異国で自分と同じ一生を生きている。つまりその旅は自分が育ち、今生きている世界を相対化して視る目を与えてくれたのだ」
星野道夫が高校生の時に初めてのアラスカで感じたこと。これが彼の世界の見方を表した言葉である。
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今回は高円寺のママパパというインドカレー屋にいる。駅前から商店街を抜けて早稲田通りに出たところにある。
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星野道夫を初めて読んだ。本多勝一の「極限の民族」、はたまた植村直己の「青春を山に賭けて」か、あるいは沢木耕太郎の「深夜特急」のような?彼を冒険家か旅人と思っていたのだが、そうではなくアラスカの住人だったとは。
アラスカでの暮らしや人との出会いを淡々と書いている。アラスカの壮大な大自然に包まれている暮らしの有り様が、今の自分の暮らしと比べて非現実的なほど魅力的だ。しかもそれが悠々と語られる。何がどうということでもない。それが心地よい。
それは冒頭に抜き出した言葉のように、世界には価値観も時間の流れも、目に見えるものも、全てが違う場所があるということなのだ。それも自分の今居る場所以外のすべてが異世界であり、いや、なかでもアラスカは日本とはかなり違うが、自分の世界だってバスを一台乗り遅れただけで全然違う人生が待っているかもしれないのだ。そう思うだけで人生は楽しい。
星野道夫的考え方の対角に、渡辺和子の「置かれた場所で咲きなさい」やブッツァーティ「タタール人の砂漠」のモノの見方がある気がする。視点は一定にしてその中で考えるか、いろいろな世界を実感して考えるか、どちらが良いとか悪いとかいう話ではない。それは個人の考え次第だ。おそらく脳内で起きてることに過ぎないのだから。