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白濁の硫黄泉に浸かりたいと思い立ち、福島の新野地温泉に行ってきました。味のある野天風呂は人もおらず独泉状態。湯量豊富で温度もちょうどよく、夜になると星を眺めてボーっとできる。誰もいない、ひとりだけ。この贅沢を味わいながら、一方でこれを写真に撮ってひとりきりで温泉を独占していることを誰かに伝えたくなります。孤独を楽しみたいのか、誰かに見てほしいのか、おそらく両方の自分がいるのでしょうね。
近くに土湯温泉という温泉街もあって、散策していると急に日が陰り、見上げると巨大こけしとすれ違いました。思わず、こんにちは、と声をかけそうになる幻影的なこけしでした。
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テレビで戦争や災害のニュースを見るとき人は神妙な顔をしながらも自分は安全な場所で他人事として見ている。
日常生活の中でも、電車で前に座っているサラリーマンを見て勝手な想像をする。
しかし、電車の中では相手も自分を見ているし、自分が災害や事件に巻き込まれればいつの間にか簡単に「見られる側」にまわる。
さて今回読んだのは安部公房の「箱男」。
「見られる」ことを拒絶し安全な場所で「見る」特権だけを享受したいと思う気持ちが箱男を生み出す。段ボールをかぶり、覗き穴を設け、胎児のように四方を囲まれた空間で匿名性を確保し自分の存在を実社会から消して、ただ一方的に「見る」側に居続ける安心感。そこには自身の手ごたえのある実体験は存在しない。
この話はある箱男の手記となっている。
箱男となった元カメラマンの男と、医師と看護婦の3人のやりとり。医師は箱男の視点に興味を持ち段ボールをかぶって偽箱男になる。医師の言いなりの愛人のような看護婦は医師の命令で箱男の前で裸になる。偽箱男は「好きにしていいぞ」「自分をいないものと考えればよいから」とけしかけるが、箱男は「見られる」側になるというその一線を越えられず、もどかしさに苦悩する。そして医師も看護婦も現実には存在せず箱男の想像物でしかないことがわかる。
しかしそもそもが、箱から覗く(「見る」)世界が実体を伴わないものであるのだから、その「見られている」存在も実体を伴っておらず、それは常に入れ替わるが、いずれも実体がない(脳の中で起きている)ことに過ぎない。
ここでは語られないが、「私を見てほしい」という承認欲求も一方ではある。「見られたい」とは思うものの、他人の視界に入ったくらいでは確固たる存在を認めさせることはほとんどできない。左右の靴を間違えて履いていることに気づき、格好悪いと思いながら電車に乗る破目になっても周囲の人はそんなものを見ていない。気づいた人がいても見て見ぬふりをするか、くすっと笑っても降りる頃には忘れてしまう。その程度でしかない。だから「見られたい」なら俳優やスポーツ選手のように見られて金をもらえるような人でないと記憶に残らせることはできない。それでも一時的なものだ。あとはただ相手の記憶に残れるよう、どれだけインパクトを出せるかと考えて、迷惑ユーチューバーのようにエスカレートしていくだけだ。挙句、本意でないことまでやらざるを得ないように追い詰められていく。
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夜は更に味わいが増します
話は「見る」側と「見られる」側がしきりと入れ替わり、要は互いに「見て」「見られ」ながら、見られている自分は見ている自分が捉えている本来の自分とは違うものとして捉えられていること、そう感じている自分も自分の何が本当だか(本当ってなんだ?)理解しておらず、そういう者同士が互いを見ていようと、見られていようと、それは違う視点で違うところを見ているものだから次第に話は錯綜していく。見ている自分と見られている自分は別の存在なのか。どちらかが本物であればどちらかは偽物である。偽物は存在しないも同然である。
段ボール箱をかぶった男の変死体が海で見つかる。彼は何者だったのか。前半部分の箱男と共通する部分も多いが、果たして同一人物なのか。では、この手記を書いているのは誰か。人はそうしてアイデンティティを失っていく。
話は途中でいくつもの挿話が差し込まれる。様々な「見る」側と「見られる」側のストーリーだ。これらも箱男の想像なのだと思う。ラストまでどれが真実でどれが想像なのか、わからず話は突き進む。箱男が段ボールに潜んで穴から覗く世界はTVと同じである。つまり目の前で起きていることだが自分にとってリアルではない。そこに気づいて箱男の覗く世界も次第にリアルを失う。見ていた番組が終われば出演していたタレントも画面から消えるが、TVのチャンネルを変えれば(あるいは次の番組が始まれば)同じタレントがまた出てくることもあるように、段ボールから覗く世界から見えなくなった人もこの迷宮のどこかにいるはず、という感覚にとらわれていく。そしてラストの一行が、何を指すのか。私には段ボール世界に追い詰められた箱男への警鐘なのだろうと思えた。あるいは海に落ちたとか?とはいえ、彼はそもそも本当に存在したのでしょうか?
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夜中は月を眺めながら