「東京ロンダリング」を飲み屋のバイトの子Rに返して話をした後、これはどうか、と勧められた。勧められるままに読んでみる。三浦しをんは「まほろ駅前多田便利軒」と「舟を編む」は読んだが、そういえばそれも誰かに勧められたのだった。私にとってはそういう星回りの作家らしい


11の短編から成る〈最強の恋愛小説集〉。これはどういう意味だろう。昔からのラヴ・ストーリー好きとしては読む前から引っ掛かってしまう。


さて、恋愛小説にトキメキと抑えきれない衝動を求める私には畑違いの短編が並んでいたので少し拍子抜けした。共感しないということではない。良かったのは「冬の一等星」と「森を歩く」。前者は車泥棒に盗まれた車の後部座席に偶々ノッていた8歳の私と車泥棒の文蔵との間で繋がった感情、信頼。


「そんなとき私は、文蔵と見た夜空を思い起こす。全天の星が掌に収まったかのように、すべてが伝わりあった瞬間を。あのときの感覚が残っているかぎり、信じようと思える。伝わることはたしかにある、と。」

共感する。しかし恋愛ではなく、心の繋がり、絆、という感じだ。


「森を歩く」は世間一般的にはダメ男に区分けされるだろう捨松の魅力を別軸から見る。自分が自分らしくいれる、自分が求めている暮らしへの切符を間違いなく持っているパートナーとの生活。そして他人には理解されなくても自分的には調和の取れた幸福。もちろん恋愛には自分にないものを求める本能はある。とはいえ、こうなると恋愛ではなく自分にとって居心地の良い居場所の話に読める。


恋愛ってなんだ?という問いはいくつかの短編の中でも提起される。同性に対して一緒にいたい、という気持ちと、異性に対して一緒にいたい、セックスしたい、との気持ち。その違いはセックスの有無だけか、と。だから友情なのか同性愛なのかわからない話もある。家族への愛情、同性同士の友情、幼い者への愛情、ペットへの愛情…それと恋愛の狭間を描いて読者に考えさせる意図だろうか。でも、そこには線を引いてほしい。


現代は個人の自由が優先されるようになり社会的偏見や束縛も表面的には無い時代なので、燃え上がる恋愛小説が書けなくなってしまったのだろうとつくづく思う。だから不治の病とか時空の壁に逃げて縛りを作ってきたけれど、パターン化されてしまったので、これも最近飽きてきた。冬の時代ですね。人それぞれにそれぞれの「恋愛」はあると思うけど、恋愛は恋愛で、やはりいつまでもトキメキを伴っていてほしいものです。

 

 

まとめると、この短編集は「最強の恋愛小説集」ではなく私的には「最強の愛情小説集」である。