「誰かが私に言ったのだ/世界は言葉でできていると」

幻想文学は70〜80年代には人気だったが今では作家も少なくなってしまった。数少ない生き残りである山尾悠子の「増補 夢の遠近法」を読む。

傑作揃いの初期短編集である。



手元に1985年に創刊した幻想文学出版会の雑誌『幻妖』創刊号がある。私もこの頃好きだったのだ。第一回幻想文学新人賞があって候補作に山尾悠子の名前がある。候補作は「眠れる美女」。世界の真ん中でガラスの柩の中で眠る美女。長い眠りから目を覚まし…という要約すれば残酷童話だ。肝心なのはストーリーではなく世界観だ。




この時大賞を取った加藤幹也(のちに高原英理)は一昨年Twitterでこんな賞取っても意味がなかったとボヤいていた。この賞、審査員の澁澤龍彦が死んで2回で終わってしまった。あの頃はペヨトル工房の『夜想』とか『銀星倶楽部』とか幻想文学、詩、芸術、舞台、哲学…を匂わす世界がサブカルチャーとしてブームでした。



さて、幻想文学新人賞の講評で審査員の澁澤龍彦はこう提唱した。「夢みたいな雰囲気のものを書けば幻想になると信じこんでいる人が多いようだ。もっと幾何学的精神を!と私は言いたい。明確な線や輪郭で細部をくっきりと描かなければ幻想にはならない」

そして山尾悠子の小説は幾何学的精神で書かれている。逆にいえば他の部分は弱い。


山尾悠子の幻想世界の美しいこと。幻想文学は人の心を書くのではなく舞台となる独特の世界を描く。一語一語に魂を込めてまるで散文詩のように。だからストーリーや主人公への共感を期待してはいけない。

「遠近法」に出てくる円筒形の塔の内部である腸詰宇宙など正にその典型で、主役は世界であって登場人物は役割だけを割り当てられた人形にすぎない。その世界観は鉛筆画のようなモノクロ世界で色が感じられない。太陽よりも月。光よりも陰だ。ヤンヴァイスの「迷宮1000」やゴーメンガースト3部作のように主役たる迷宮の塔は各フロアを無限に続く階段だけが繋ぐ石造りの暗い建物だ。書いてる途中でボルヘスの「バベルの図書館」に世界の構造が似ていることに気づき、作中にバベルの図書館を持ち出すなど狼狽が見える。


SFとして書かれ?SFマガジンに掲載された処女作「夢の棲む街」では見事な世界観を描写し、2作目「月蝕」では現実世界を舞台に生身の人間を登場させて幻想的な世界を描いている。


哲学的なイデオロギーがあるのではない。作者の幾何学的イメージを伝え共有するために書かれてるのだと思う。作中で起きる事象や会話の多くは断片的でストーリーを作るものではない。ただこの不思議な落ち着かない世界を理屈ではなくイメージで詳細に伝えてくるのである。


巻末の自作解説は山尾悠子の本心が書かれていて面白い。