「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」この詩が林芙美子の書いたものとは知らなかった。天気が良かったので中落合の林芙美子記念館に行ってきた。47歳で死んだ彼女が最後の10年を過ごした家である。入館料150円。



中落合の四の坂にある新宿区立林芙美子記念館





林芙美子といえば「放浪記」。「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない」と冒頭にあるが、鹿児島の温泉旅館の娘だった母は行商人の父と一緒になったことで古里を追放されて、たどり着いた下関で芙美子を生んだ。芙美子は18歳で東京に出て自立し母に楽をさせたいと思う。しかし職を転々とし、貧乏の中で友達や恋人ができ、別れ…自分は文章を書きたくて書きたくて童話や詩を書いて時に原稿料を稼ぐ。そうした日常が日記調に書かれている。時に愚痴や恨み言も呟かれるが芙美子はどこか明るく逞しい。貧乏の中でも夢を持ち誰かを頼ったり頼られたり時に潰れそうになるが乗り越える。
 それでも最後は「私は窓をいっぱいにあけて、上野の鐘を聞いた。晩はおいしい寿司でも食べましょう」なんと明るいラスト。おそらく大正末から昭和の初めの貧乏が蔓延った時代に、そこから抜け出そうともがきながらも逞しく生きる芙美子に多くの庶民が自分を投影して共感したのだろう。




林家の​茶の間。照明がおしゃれだ





林芙美子の書斎。机は庭に面して置くのが良いと私も思う


 作中で芙美子は母親に対して「私がどうにかなるまで死なないで。此儘であの海辺で死なせるのはみじめすぎると思う」と呟く。まさにその親孝行を果たしたのがこの家なのだ。林芙美子は24歳で「放浪記」を書いて時代の寵児となりその後37歳でこの家を買った。花のいのちはみじかくて苦しいことばかりかもしれないが、47歳で早死したとはいえ人気作家として明るい後半生を生きた。晩年の成金趣味が有名だったそうだが貧乏な生い立ちから金と名声を手に入れたんだから当然の話である。
 一方で、同じフミコでも1歳違いの金子文子の壮絶な人生を思い出す。極貧の中で無戸籍者として育ち、父、母、祖母や親戚、大人たちに育児放棄され虐待され搾取され、大逆罪で死刑判決を受け恩赦を拒んで23歳で獄中で自害した金子文子である。「何が私をこうさせたか」では子供の頃に愛情を受けなかった金子の殺伐とした10代には茫然とさせられた。
金子は貧困を恥とは考えなかった。むしろ貧乏を恥ずかしいと考える拝金主義者を軽蔑した。たいそうな理屈を並べるが結局は答えのない西洋的な近代思想、多様性を認めず優劣をつけたがる発想を憎んだ。「私は私自身でなければならぬ」他人の人生を生き他人の奴隷になるのなら自死を選んだ。彼女は権力も宗教も因襲も厭い、自分を含むあらゆる生き物の絶滅を望む破滅的なアナーキストとなった。
 貧困の度合いや関わった大人たちの差だろうか。同じ時代に、夢を追いかけて貧乏から抜け出した芙美子と金儲けを嫌い自分を生きるために自ら命を絶った文子。冒頭の林芙美子の詩は金子文子のことを謳ったのではないかと思ってしまう。