「諸侯たのむに足らず、公卿たのむに足らず、草莽志士糾合義挙のほかには

とても策これ無き事と、私ども同志うち申し合いおり候事に御座候。

 

失敬ながら、尊藩(土佐藩)も弊藩(長州藩)も滅亡しても大義なれば苦しからず」

久坂玄瑞

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

楠木正成が有名なのは、まず卓越した戦術家であったことである。

赤坂、千早での戦いは、寡兵で大軍を相手にしている。

 

 

また幕府が大軍を差し向けたこと自体

彼をかなり脅威と見なしていたことが分かる。

 

 

それでもなお蹴散らすことができたことは、築城地点の着眼、兵站の重要性の理解、

ゲリラ戦の名手であり、卓越した戦術家であったことを証明している。

 

 

戦術のみならず、戦略家としてもかなり高い評価がなされた。

研究は進み、彼の評価は、武将・官僚・商人としても高い。

 

 

江戸初期の儒学者、山崎闇斎は張良、諸葛孔明、郭子儀など

中国史の人物を高く評価しているが、楠木正成は公明の次ぐらいとしている。

 

 

三国志でかなり誇張された公明の次、という評価は驚くべきものである。

その他の論者も、源義経、武田信玄、上杉謙信などより上に置いている。

 

 

 

古代の地中海世界を知る我々には、アレキサンダー、ハンニバル

スキピオ、カエサルなどが浮かぶが、比較することはできない。

 

 

同時代に同じ力量を持った存在がいなかったことも

その人が持つ幸運なのである。

 

 

 

 

 

史実どうか定かではないとされているが、

この「桜井の別れ」も有名である。

 

 

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建武3年5月(1336年6月)、九州で劣勢を挽回して山陽道を

怒濤の如く東上してきた足利尊氏の数十万の軍勢に対し、

 

 

その20分の1ほどの軍勢しか持たない朝廷方は

上を下への大騒ぎとなった。

 

 

新田義貞を総大将とする朝廷方は兵庫に陣を敷いていたが、

正成は義貞の器量を疑い、

 

 

今の状況で尊氏方の軍勢を迎撃することは困難なので、

尊氏と和睦するか、またはいったん都を捨てて比叡山に上り、

 

 

空になった都に足利軍を誘い込んだ後、これを兵糧攻めにするべきだと

後醍醐帝に進言したが、いずれも聞き入れられなかった。

 

 

そこで正成は死を覚悟し、湊川の戦場に赴くことになった。

その途中、桜井駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて

 

 

「お前を故郷の河内へ帰す」と告げた。

「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、

 

 

正成は「お前を帰すのは、自分が討死にしたあとのことを考えてのことだ。

帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、

 

 

一族郎党一人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」と諭し、

形見にかつて帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を授け、今生の別れを告げた。

 

 

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完全な史実であるかどうかが問題ではない。

この物語性こそが肝要なのであって、それゆえに深く心を揺さぶられるのである。

 

 

 

 

 

楠木正成は新田義貞と分断されたのち、弟の楠木正季

「敵に前後を遮断された。もはや逃れられない運命だ」と述べ、

 

 

前方の敵を倒し、それから後方の敵を倒すことにした[15]

正成は700余騎を引き連れ、足利直義の軍勢に突撃を敢行した[15]

 

 

菊水の旗を見た直義の兵は取り囲んで討ち取ろうとしたが、

正成と正季は奮戦し[15]、ついには直義の近くまで届き、

 

 

足利方の大軍を蹴散らして須磨、上野まで退却させた[15]。直義は楠木軍に

追いつかれたが、薬師寺十郎次郎が奮戦し、辛くも逃げ延びることができた[15]

 

 

尊氏は直義が退却するのを見て、

「軍を新手に入れ替えて直義を討たせるな」と命じた[15]

 

 

そのため、吉良氏高氏上杉氏石堂氏の軍6千余騎が湊川の東に駆けつけて後方を遮断しようとしたため、正成は正季ともに引き返して新手の軍勢に立ち向かった

 

 

6時間の合戦の末、正成と正季は敵軍に16度の突撃を行い、

楠木軍は次第に数を減らし、ついに73騎になっていた[15]

 

 

疲弊した彼らは湊川の東にある村の民家に駆け込み、

正成と正季は刺し違えて自害し、残りの腹心である和田正隆らも皆自害した。

 

 

また、このとき菊池武吉が兄菊池武澄の使いで

須磨口での戦いの様子を見に来ていたが、

 

 

彼は正成の自害する場に行き、

見捨てることができないことを理由にともに自害した。

 

 

ファイル:Series Yi 5 Sen Bank of Japan note - front.jpg

 

 

ファイル:Kusunoki Masashige statue.jpg

 

 

湊川の戦いでの自害の直前、正成は弟の正季に、

次はどのように生まれ変わりたいか、と尋ねた[224]

 

 

正季はからからと打ち笑って、「七生まで只同じ人間に生れて、

朝敵を滅さばやとこそ存じ候へ」

 

 

(「(極楽などに行くよりも)7度人間に生まれ変わって

朝敵を滅ぼしたい」)と述べた[224]

 

 

正成は嬉しそうな表情をして、「罪業深き悪念なれども我もかやうに思ふなり」(「なんとも罪業の深い邪悪な思いだが、私もそう思う」)と同意し、

 

 

「いざゝらば同じく生を替へて、此本懐を達せん」(「さらばだ。

私も同じく生まれ変わり、滅賊の本懐を達そう」)と兄弟で差し違えた

 

 

 

 

建武の新政以前の戦いぶり、一旦、尊氏を追い払ってからの献策

受けれいられず、死を見越しての子との別れ、そしてこの最後

 

 

楠木正成は日本人にとって、完璧な「物語」なのである。

この「物語」が受け継がれ、幕末へとつながった。

 

 

 

この世の不条理、もののあわれ、諸行無常といった

すべてが、楠木正成個人に体現されている。

 

 

 

江藤淳が戦後の言語空間を称して「失われた」と表現した時

それは楠木正成を通して語られる、日本人の物語を失ったと云える。

 

 

 

 

 

「歴史はときに、突如一人の人物の中に自らを凝縮し、世界はその後、

この人の指し示した方向に向かうといったことを好むものである。

 

 

これら偉大な個人においては、普遍と特殊、留まるものと動くものとが

一人の人格に集約されている。

 

 

彼らは、国家や宗教や文化や社会的危機を

体現する存在なのである。

 

 

(略)

危機にあっては、既成のものと新しいものとが交ざり合って一つになり

偉大な個人の内において頂点に達する。

 

 

これらの偉人たちの存在は、世界史の謎である」

ブルクハルト     『世界史のついての諸考察』

 

 

 

ブルクハルトのこの言葉を日本史の中で見るならば

やはり楠木正成であり、幕末から大東亜戦争敗北までを体現している。

 

 

今日にいたり、振り返れば大別して二つの面がある。

正の側面としては、植民地支配を免れたことである。

 

 

江戸期に涵養された精神が、幕末に多くの人物を生み出し

彼らに命を顧みぬ行為をなさしめたと言える。

 

 

討幕派だけでなく、佐幕派も見事な生き様を見せてくれ

白虎隊や河井継之助などが思い浮かぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

負の側面は、大東亜戦争の敗北に見られるだろう。

いわゆる保守と自称する言論人は、近代を否定する。

 

 

しかし近代の生み出した合理主義は、軍隊にとって欠くべからざるものである。

戦争に勝つことが、究極の目的の組織だから当然だろう。

 

 

まず徹底した合理主義がなければならず

そこに不純なものなど含まれてはいけない。

 

 

物語性などは、もってのほかであり、

戦争に勝つためには、絶対に排除しなければならない。

 

 

楠木正成を再評価するためには、こうした負の側面を除いて

描き出すことが、必須となる。

 

 

 

なぜこんな話をしたかというと我々は、物語を失ったため

戦後一貫して戦うことを放棄し、それが故に、「敵」も失った。

 

 

現代に生きる我々が、「戦え」と言われ、心を揺さぶられても

一体、どこの誰と戦ったらよいのか、分からない。

 

 

また「戦う」にしても、どこの旗の下で戦うのかも分からない。

対象がない、目的が見えない、大義も見えない。

 

 

 

主たる文化がそうであるから、サブカルチャーの漫画やアニメは

戦いを描くとき、敵や大義の中心軸がない。

 

 

ナルトではサスケが復讐を目的とし、進撃の巨人では揺れ動き

鬼滅の刃では鬼、呪術廻戦では呪い、といった具合である。

 

 

 

 

 

 

あちらこちらに話がとんで、とりとめながない。

次は、ウィキには出ていない名和長年の逸話からいこうか。