「純粋現象学は、純粋意識の科学であることを

最初に、われわれは提案しておく」

To begin with ,we put proposition : pure phenomenology is 

the science of pure consciousness

エトムンド・フッサール 

 

 

 

 

 

伊藤貫さんのお話が、面白いので、書き起こしていると、

米国では、キャンセルカルチャーが起きていると言う。

 

 

キャンセルカルチャーとは、文字通り、他者の価値を認めないこと、

認めなければ聞く必要もない。

 

 

ポストモダン現象が、問題だと彼は言う。

一番、恐れていたことが起きたと慨嘆した。

 

 

客観的な真実、客観的な現実、客観的な事実

そういうものはないんだと言い始め、

 

 

ポストモダン現象によって、形而上的な価値観がなくなり、

全て、個人の判断に任せてよいという考えの影響下にある、と彼は言う。

 

 

哲学の主流は、確かにモストモダンになってしまった。

他にもいろいろあるけれど、現象学というものもある。

 

 

現代、現象学批判は、現象学が「客観認識」

「厳密な認識」の基礎づけの学、とみなし、

 

 

絶対的に正しい「客観認識」あるいは「真理」の基礎づけの学、

と言われている。

 

 

しかし、現象学が主張しているのは、

 

「絶対的な客観認識」や「真理」は存在しえないが、

 

「妥当な認識」(つまり普遍的な認識)は存在しうる、点にある。

 

 

なぜ「絶対的に正しい認識」が不可能なのか、

にもかかわらず、なぜ「妥当な認識」は存在しうるのか、

この2つを解明する学、ということにある。

(竹田青嗣 はじめてのフッサール『現象学の理念』P6~P7)

 

 

 

「客観的な真実、客観的な現実、客観的な事実

そういうものはないんだと言い始め、

 

 

ポストモダン現象によって、形而上的な価値観がなくなり、

全て、個人の判断に任せてよいという考えの影響下にある」

 

 

このことは近代哲学以来の「認識問題」の「謎」

「主観ー客観」は一致しないという「謎」が解かれないままで

表出してしまったことを意味する。

 

 

確かに「純粋客観」は存在しないが、

なのに「妥当な認識」は存在するのか。

 

 

例えば、マクドに行くとする。

何かのセットを、おねーさんに注文する。

 

 

新メニューのハンバーガーの味は分からないが、

写真を見て、おいしそうだと判断し、注文する。

 

 

次に、お飲み物はと聞かれ、コーラを注文、ポテトも。

この時、我々はなぜ「コーラ」を注文するのか。

なぜ「ポテト」を注文するのか。

 

 

「コーラ」や「ポテト」を「純粋客観」で捉えることはできない。

しかし、「コーラ」や「ポテト」をなぜ認識し注文できるのか。

 

 

「コーラ」に関する一般的な認識は、

黒くて、甘くて、炭酸飲料なので刺激がある、など

 

自ら知覚よって生じた認識と、他者からの認識が

混在した形で内在しているものである。

 

 

生命を脅かすモノと認識していれば、

わざわざ注文したりはしない。

 

 

このように、我々は、普段、気付かぬうちに

「妥当な認識」の中で生きている。

 

 

客観的な真実、客観的な現実、客観的な事実は存在しないのに

一体、どうしてなのだろうか。

 

 

「それって、あなたの感想ですよね」と問う人がいる。

その認識は、一体どこから来ているのだろうか。

 

 

 

この場合、あなたの感想=主観、もっと厳密に言うならば「純粋主観」

「それって、あなたの純粋な主観ですよね」

と言い換えることができる。

 

 

 

質疑する人は、純粋的な主観や純粋的な客観、を

成立させないといけない。

 

 

この問いの重要なことは、「あなたの感想」である。

意識的か無意識的か、純粋な主観が確実に存在しうるということになるから。

 

 

純粋主観が存在する条件としては、無から有にならねばらない。

人間の場合、西遊記の孫悟空のように、石から自然発生し

 

 

他者とも一切関わらず、何も摂取しない、刹那にこの世を去る。

無ー有ー無の一瞬の間だけ、純粋主観は存在することができるかもしれない。

 

 

「それって、あなたの感想ですよね」という問いは、

この有の一瞬の間になされなければ、成立しえない。

 

 

そうでなければ、「それって、あなたの感想ですよね」という問いは

あなたの感想=普遍的な認識、つまり妥当な認識を意味してしまう。

 

 

 

言い換えると、「それって、あなたの妥当な認識ですよね」となり、

「あなたの妥当な認識は、わたし(質疑者)の妥当な認識とは、異なります」

ということになる。

 

 

 

上に挙げた例の「コーラ」に対する認識、

こういうものでさえ、成立しなくなってしまう。

 

 

例えば、カラスはカァー、犬はワン、

「それって、あなたの感想ですよね」と言われると、

 

 

じゃあ、カラスはワン、犬はカアーということですか

「それって、あなたの感想ですよね」

 

 

 

この不毛な言語ゲームが永遠と続くことになる。

キャンセルカルチャーは、これに近い構図である。

 

 

 

客観的な真実、客観的な現実、客観的な事実

 

言い換えると、絶対的に正しい「客観認識」あるいは「真理」

これが、存在しない。

 

 

だから話し合っても、無駄である。

全て、個人の判断にゆだねてよい。

 

 

このようなことが、民主制を採用している国家で、

それも、議論を交わさなければならない、議会で起きているという。

 

 

階級間の対立が緊迫している民主主義国家群では、

小さな交渉を無数に重ねて、その対立を解消していくことが不可欠である。

 

 

ごくごく小さな団体同士でも、当然、意見の相違は見られる。

議会となれば、もっと相違は大きいだろう。

 

 

 

しかし、それを擦り合わせていくのが、議会である。

さまざまな人びと、さまざまな団体の意見を集約している人、

 

 

それが議員なのに、擦り合わせ、どころか

対話もしてくれない状況は、困った事態。

 

 

現象学的には、お互いに「妥当な認識」がない、ということになる。

なかなか厳しい世界を生きる人たち。

 

 

 

全てを個人に任せておいてよい。

わたしは犬が大好きなので、

 

片足を上げてマーキングすることのどこが悪い、と言いだし

男女問わず、議会でマーキング

 

 

そして、その匂いを嗅いでまわる光景を思い描いてしまった。

そこまでいくと、ちょっとまずいんじゃないと思ってくれるかも。

 

 

 

不謹慎だが、現象学徒としては、キャンセルカルチャーは、なかなか面白く、

また興味をそそられる事象で、リハビリを兼ねて考えていきたい。