先回は、柄谷とカント理解のことを取り上げた。

今回は、柄谷のカント解釈と竹田先生のカント解釈を眺めてみたい。



テーマが「資本主義のアポリア」であるのに、

カントに立ち寄っているのは、柄谷の『トランスクリティーク』

にたいし本質的なやり方で、せまることで、見えるからだ。



まず先生は、柄谷のカント解釈に対し、二つのプログマティック

(問題圏)を提出している。



『一つは、カントの「物自体」という解釈の意味であって、

これは近代哲学における「観念論」の意義にかかわる。



もう一つは、柄谷が「物自体」を「他者」とおいた

その根拠と理由についてのわたしなりの解釈である。



ここには、認識の問題と倫理の本質についての

微妙かつ重要な問題が横たわっている(略)』



カントはたしかに認識の問題を「「合理論」と

「経験論」の間に立つことで解決しようとし、

その根本プランは「物自体」の概念にある。



柄谷はこれを経験的な「私」ではない「超越論的な統覚=X」の立場、

として、「貨幣」の「超越論的な仮象性」に重ね合わせている。



しかし、「物自体」の概念は「超越論的統覚」の概念とは

直接関係がなく、この重ね合わせは強引だ。



カントの「物自体」というプランは、認識の本質を問うとき、

一方で必ず「絶対客観論」が生じ(これは神学的前提による)



もう一方で「認識とは煎じ詰めれば主観でしかない」という

対極の考えが生じるその本質的な理由を解明しようとした。



この難問に対するカントの考えは極めて透徹しており、

見事なものである。



また、先生から引用する。



『世界は無限か有限か。自由はあるのか。

事物は最小単位をもつのか。また必然的存在はあるのか、ないのか。



こうしたことについての「世界」説明はなぜアンチノミーに陥って

不可能となるのか。なぜ、対極の命題が現れて、解決不可能

という現象を引き起こすのか。その理由はつぎのように考えればいい。



この問題の核心に「物自体」を置くわれわれ(カント)の立場からは、

問題の本質は明らかである。



そもそもわれわれの「経験」というものは、

「世界それ自体」にまでは、つまり一切合切にまでは決して及ばない。



これは経験なるものが感性形式に限定されているという本性からくる。

ところで、理性の本性的能力は”推論”の能力である。



それは「経験」を統合する悟性の能力をはるかに超えて越権し、

与えられている現在の条件から、その因果の系列を

どこまでも遡行し、ある完結性や全体性にまでゆきつかないと

決してとどまろうとしない、という本性をもつ。



この理性の本性がアンチノミーを必然的にする(略)』



例をあげると、一方で、「世界は起点をもつ」という世界表象は、

理性に、世界の時間を遡行してそれがある時点(起点)で

完結することの必然的な説明を与えない。



さらに、この起点はいかにして生じたかという問いが、

推論する理性の権利的問いとして必ず現れるからである。



もう一方で、「世界は無限である」という世界像も、

世界の完結性や完全性の像を作り出せないから、

理性をして、その先はどのようになっているのか、

という果てのない問いを生み出させる。



さらに注意すべきことは、この二つの答えは単に

等価というだけではなく、必ず対立的に分極する

必然的理由をもっていることだ。



この理由も解明できる。



「世界は有限、最小単位も自由もあり、神もいるに違いない」

と考えてしまう傾向の人は、まず心根の正しい、性格のまっすぐな人。



彼は世界に親和性をもち、人間の善と信頼、

自由と道徳を”信じて”いる。



彼の世界像は、世界についての調和と完結性を求める。

このような人の世界像は、世界の有限、最小単位、自由、

そして神の存在を要請せずにはいない。



この世界像は、「常識的」な世界像であり、良識ある

たいていの人は世界をそのようなものとして理解しようとする。

ゆってみれば、「独断論」の性格をもっている。



これに対して、「世界は無限、最小単位はなし、

絶対的自由はない、必然的存在もなし」という傾向の人。



この人は、人間と世界についての完結された調和や

秩序の像に対し、違和感をもっている。



彼は人間世界の常識的な善や道徳を信じず、

その代わりに人間の世界の思弁や理路の能力に重きを置く。



だから、理論的、思弁的には、常識的な独断論より

彼らの経験論的懐疑論のほうが優位にあることを

認めないわけにはいかない。



人間の「常識的」世界像は、まさしく「独断的性格」をもち、

哲学的思考としては経験論に一歩譲る。



けれども、経験論者たちのいうとおりならば、

われわれに自由などないという考えは、

人間の道徳的根拠を脅かし、人間不信にさせる。



つまり、経験論は人間の道徳的実践的関心に

水をさすような性格を持つが、独断論は、実践的関心にいわば

「統整的規則」を与える。



ありがたいことに、経験論は人間の生と世界の感度に

不安を与えるものだから、つねに人々にとって「不人気」にとどまる。



このようなことが、先験的世界理念のアンチノミーにおける

根本的対立の背後に潜んでいた、本質的な事情である。



「悟性」と「理性」の本質を明らかにすることから

「物自体」の概念を導き、このことではじめてこれまで

解きえなかった形而上学的問題を解明し、この解明により、

上記のような不毛な対立が長く続いて理由をも、教えられた。



こうして、先験的な世界理念の問題は、経験論ではもちろん

解きえないこと、また「独断論的解決」も「不確実」というよりも、

そもそも「不可能」なのだということが理解される。



かなり省いてしまうと、カントの主張の概要は、

世界の事実それ自身を問うのではなく、われわれ自身が

その担い手である観念のありようの本質を問うことであるから、

必ず妥当な答えを取り出すことが出来る。



そのような意味で、先験的(=超越論的)観念論の立場は、

「完全に確実である」ということである。



「物自体」とは何であるかについての

完全な哲学的解明に達しなくても、

「形而上学」的対立と理由については、

これを十全な仕方で解明していると言える。



以上から、カントの解明が単に煮立つの考えの「間」に立つ、

といったこととは本質的に無関係であることが、理解できる。



最後に、竹田先生からの引用を書き出してみる。



『つまりカントの思考は、本質的に「哲学的」なのだ。

これをひとことで言えば、「物自体」の概念がさしあたって

指し示しているのは、「他者」といったことではなく、



世界認識には、経験として(つまり現実的な人間間の

共通了解として)認識できる領域と、

理念としてのみ認識の要請をもつ領域とが必ず存在するという事情、



すなわち、認識地平の領域区分の本質的解明を

果たしているという点にある。



「物自体」とは、認識における理念的な要請の

領域に与えられた概念なのである。


そして、まさしくこの概念だけが、スピノザ、

ライプニッツなどの合理論とロックやヒュームの経験論との

「世界信念の対立」の理由を本質的に解明したのである。



このことが、言うべきことの一つだった。(略)」



ここまで来ると、柄谷のカント解釈が

哲学的には、まったく説得力をもたない。



彼が、つまみぐいのようなカタチで

「トランスクリティーク」で展開した主要な主張の一つ、

カントによって立つことができないばかりか、

彼が本質的に間違った視座から、

思索をしていることが明らかになる。



むしろ、近代哲学に対する姿勢がざっくりとした

巷に蔓延る一般的な解釈、それを受け売りにして、

ビッグネームを流用しても、原理として取り出していないため、

「合意」、もしくは、「共通了解」は得ることが出来ない。



ここまできても、われわれが抱えている

「資本主義のアポリア」を本質的なやりかたでは、

とりだすことはできない。



私個人としては、見えてはいるのだが、

厳密にすすめないと、ではどうすればいいのか、

という現実的な問いに対し、哲学的に説明できないからだ。



柄谷がカントによって立つため、

まだこの方向で進まないといけない。