スロバキアとポーランド一帯にまたがるタトラ山脈出身の
タトラ人(山の人)で、権力者や金持ちから金品を強奪し、
伝説的盗賊で、実在した人物である。
日本なら、さしずめ、ねずみ小僧じろきち、とか、
石川五右衛門といったところになろうか。
いや、ヤーノシークは、スロバキアの英雄とされており、
ポーランドでも、タトラの英雄になっているから、
もっと、著名な人物である。
彼は、ハプスブルグ家に対する、
ハンガリーの解放戦争に従軍し、
反乱軍が負けると、一旦帰郷、農業に従事する。
しかし、すぐに皇帝軍に入隊していることから、
やはり、戦いの中に身を置くことを好むタイプの
人物だったように思われる。
彼の配属先は、凶悪犯を収監するビトチャ城の
駐留部隊だった。
ここで、カルパチア盗賊団の頭目、トマーシュ・ウホルシーク
と知り合うのだが、察するに、このような任務に
向いていない闘争を好む人物なので、
ウホルシークと意気投合したと思われる。
現代とは異なり、もっと緩やかだったのだろう。
彼は、ウホルチークの逃亡を手伝って、
のちに、自らも部隊から逃亡(除隊説もある)している。
現代の常識で考えれば、ウホルチークの逃亡の際、
絶対に関与を疑われ、罰されていただろうが、
時代が違うこと、皇帝軍の軍規もゆるゆるだったのだろう。
貴族様に庶民が絶対的な忠誠を誓っていたわけがない。
だから、逃がしたろか、みな、ええよなー、
まあ、ええかー、なんてのびやかな匂いがする。
ウホルチークの盗賊団に入り、
1711年、ウホルチークの引退に伴い、
盗賊団の首領になる。
この荒っぽい時代背景を考えれば、
腕っ節も強く、猛々しい輩を、おさえつける
力量もあったのだろう。
ウホルチークも面白い人物で、引退後、
マルチン・ムラヴェッツと名前を変え、
ゲメル地方クレノヴェッツ村に住みついた。
そして、放羊や布織物の生産を営み、
村の治安判事も務めていた。
犯罪者が、判事とはなかなかに面白い。
ヤーノシークは、ポーランドとハンガリーを結ぶ街道の
山間地帯で、せっせと盗賊家業をした。
ターゲットは、商人、高位聖職者、郵便、通りすがりのお金持ち、
主目的は、自分たちの利益のためだったので、
ここが、伝説とはちょっと異なる。
けれども、こまごましたものを近隣の村の
若い女性に配ったりはしていたから、
もてるための贈り物や、村の人々におすそ分け、
そのようなことはしていたに違いない。
山賊・盗賊という仕事で、しかも高位聖職者まで
狙っていたから、近隣の村にいつでも逃げ込めるよう、
村人の好感は得なければならなかったはずだ。
盗賊行為が行えたのは、ウホルチークの支援もあったが、
地元の有力者にも配慮をしていた。
ヤーノシークの活動期は、とても短かった。
1712年に仲間が白状し、1713年、春には
ウホルチークと一緒にいたところで、お縄になる。
容疑は、司祭殺害事件だった。
実際には、関与していなかったとされる。
彼は、審理、といっても、2日間拷問された。
しかし、彼は罪を認めなかった。
もちろんだ、やってないのだから。
だが、供述を拒んだことが有罪とされ、
鉤から吊り下げる死刑に処された。
ちなみに、ウホルチークも拷問を受け、
彼は、ペラペラと白状して、ヤーノシークの一ヵ月後、
死刑に処された。
ウホルチークは、ペラペラ話さなければ、
大丈夫だったかもしれない。
そして、後世、ヤーノシーク同様の評価をもらえたかもしれない。
ヤーノシークは、今でも、英雄で、
テルホヴァー村には、銅像が建っている。