英語不要論は、英語のテーマで援護射撃して、

その他の教育に関するテーマは、教育のテーマで

書くことにしたので、今回は、教育の中でも

一番怒り心頭だろうなと思われるところに入ります。


また、ぱくって! 先生、m(_ _ )m



『(前略)

大学教育については、産学連携ばかりを言い立てる。

一九九八年以降、経団連だけで産学連携がらみの提言を

少なくとも四十七件は出している。


大学を卒業したら産業界ですぐに役立つ人材を育てろとも言う。

産学連携も悪くはないが、それはあくまで大学の研究活動の

ほんの一部でなければならない。


大学は主に長期的視野の研究を行い、産業界は主に

短期的視野の研究を行うという住み分けが、

最近壊されつつある。


産学連携ということで研究資金は当然すぐに役立つ

分野ばかりに行く。天文学や哲学や歴史学と連携する

企業はまずはない。


慢性的研研究費不足にあえぐ大学では自然、外部資金を

多く集める分野ばかりを重視し充実するようになる。


こうして、一見役にも立ちそうにない基礎科学や、

文系の諸分野が次第に縮小され、ついには切り捨てられていく。


歴史的視点に立つと、数学とか理論物理学などの基礎科学の

弱い国が、長期間繁栄したことは近代になって一つもない。


風上の基礎科学が衰微していて風下の技術革新が

盛んになるという例はないのである。


(中略)


それだけではない、市場経済のためには「小さな政府」

ということで、国立大学予算は毎年一パーセントずつ

減らされている。


とりわけ我が国における基礎科学研究のほとんどは

国立大学が担っているから、今大変なことになっている。


産業界からの資金の入る分野はまだしも、

役に立ちそうもない分野は激しく落ち込んでいる。


数学研究費などは二〇〇五年度までの七年間で

三〇パーセントも減らされ、今ではアメリカの何と四パーセント、

フランスの一〇パーセントにまでなっている。


予算を削減された場合、研究教育機関である大学に

コスト削減の方法はほとんどない。研究費カット、賃金カット、

人員カットくらいなものである。


今これら三つが各国立大学で同時に起きている。

大学に研究ポストが少なく、研究予算もないとなれば、

基礎科学の研究者を志す若者がいなくなってしまう。


最も優秀な人材が、普通の人の何倍も努力を払って

博士号を得ても、就職先もなければ研究費もない

ということになるからである。


風下が死ねば、長期的に風下も死に、

科学技術立国は不可能となる。

                        (後略) 」




ずいぶんと怒っておられるようである。当たり前の話だ。


だって、科学技術立国を標榜する国が、数学研究費を

アメリカの4%にまで削っていることには、

もはや呆れかえって言葉もない。


理系のものたちの根本的な抽象的思考を、

作り支えていくのが、数学なのである。


この国は文系人間ばかりで、国家の舵取りをし、

理系の人間を大事にしない癖があるが、

それもここまできたかと慨嘆するばかりだ。


象牙の塔の住人には、産学連携もいいとは思うが、

それも程度によるだろう。


アメリカのように学者と、政治家と、産業界がずぶずぶなのは

いかがわしいだけで、学問的にはどうだろうかという気がする。


例えば、ライス国務長官は、スタンフォード大学から

パパ・ブッシュの政権内に入り、また、スタンフォードに戻り、

石油会社シェブロンの、保険会社のトランスアメリカ、

ヒューレット・パッカード社、J・P・モルガン、チャールズ・シュワブ、

などの取締役を兼任する。


そして、今や国務長官様である。産業界とずぶずぶ、

ぐだぐだやろうなと思われても仕方がないのである。



産学連携を推し進めれば、日本はただでさえ政治家と産業界は

しっぽりと相合傘の下に入っているのに、

御用学者まで取り込んで、理論武装までしたら、

典型的な腐敗した金権民主主義の出来上がりではないか。


学者の世界は、極めて政治的でもあるのにそれに拍車をかけ、

真面目な研究者を一掃せんがごとくである。




むかついて言いたいことが山ほどあり、話がハラバラだ。

もちつくために今日のところは、これぐらいで。


ぱくった雑誌は、

「国家の堕落」(藤原正彦・文芸春秋2007年1月号)