六月十三日 日曜日

 

本日も競馬は在りましたがお休みです。

昼は母親の法事に加え、

叔母が急逝して夜はお通夜に参列。

多忙な一日でした。

 

そんなんで、

一日に般若心経を二回も唱えましたが

何度詠んでも覚えられないものです。

 

覚えている一節は

「色即是空 空即是色」の一節ですが、

多分、凡人の私は、お経の教えの中で、

ここだけ理解できていれば十分な気もしますね。

 

この世のどんなものも実は実体がない「空」。

逆にこの世に実体のないもの(例えば精神など)

は見えなくても実際には有るんです。

という意味でいいかな?

 

実は実体のないものに、こだわって

欲しがったり、無くしたりして悲しむ必要はない。

 

とはいうものの、その「空」という認識を

理解・習得するのはなかなか出来るものでは

ないですよね。

 

「空」を習得するための手段として、

いろんな仏教の宗派が、

その方法をあみ出そうとした。

 

それが、難行苦行だったり、座禅だったり、

踊念仏、一心不乱にお題目を唱えたりしている

のかな? と私は思えるのです。

 

宗派の違いで手段は違えど目的は一緒。

「空」の教えで人々の心を救う方法を

編み出したのでしょうね。

 

目的に到達するための考え方が違うだけ

だから、すべてが意義あるものでしょう。

 

話はちょっと違うけど、

以前読んだ本で私なりに、

仏教の宗派の違いが理解出来た

たとえを紹介しますね。

 

死後の世界で天国に行けるかどうかの場面を

タイタニック号から投げ出された海の場面に

置き換えて想像してみよう。

 

仏教の初めのころの教えは、

助かりたかったら、生きているうちに

必死で泳ぎの練習をしなさい。

泳いで救助船にたどり着いたものが

救助船に乗れる。

 

だからいざというときに溺れないように

難行苦行を行いなさい。

(これが密教系)

 

 

いやいや、必死で泳ぐ練習を

しなくなくても、海に浮く感覚を養って

海に浮いていれば、救助船に助けてもらえる。

 

座禅により無という感覚、それが浮くという感覚

その感覚を悟れば海に浮いていることができる。

(これが禅宗系)

 

 

いやいや、そんな修行も必要ない。

それだと、修行をしていない人は救われない。

それはおかしいよ。

修行を全くしていなくても助けてもらえるんだよ。

 

とにかく救助船(阿弥陀様)に向かって

「阿弥陀様~助けて」という声を出していれば、

救助船に乗せてもらえる。

(これが南無阿弥陀仏の唱え)

 

そうかな~?

救助船(阿弥陀様)は、たくさんの溺れそうな

人の中から「助けて~」と言っている人から

優先的に救助するとは思えない。

 

すべての人が、救助船に乗れるチケットを

持っていれば、救助船に乗せてもらえる。

そのチケットが妙法蓮華経。

 

「南無妙法蓮華経」と唱えれば、

救助船に乗るチケットを入手できるから

溺れそうになった後で、

救助船に救われるのではなく、

海に漂うこともなく、

最初から救助船に乗れますよ。

(これが日蓮上人の教え)

 

すべてが、人が溺れることなく

天国に行けるための教えだから、

全部有り難い教えだね。

 

私が、平和な時代に生きているから、

そう言えるのかもしれませんね。

 

じゃあまたね。