田辺に着いたのは、その日の夕方前。

 

 さすが熊野水軍の本拠地とだけあって、広い町には屈強な男たちであふれていたがそれに劣らず、参詣客相手の行商人や漁師たちの姿があり、京の町以上に活気づいていた。

 

 中心街へと向かう通りを歩きながら、双子は「こんな大きな町、来たことねぇ!」と興奮半分、「おれたち、大丈夫かな?」と不安半分で、あたりをきょろきょろ見回していた。

 

 しかし、通りを行きかうものたちの視線を常に集めたのは、黒鋼のように磨き上げられた肢体を持つ巨馬と、それに乗る白い衣を頭から被った、男か女かも分からぬ人物であり、双子には誰も見向きもしない。

 

「ようやく着いたね~、田辺に!」

 

「ええ、道中、怨霊に襲われることが一度もありませんでしたから、思いのほか早く着きましたね」

 

「……おまえら、そんなに頻繁に怨霊たちに出くわすのか?」

 

「神子の存在は怨霊を呼び寄せてしまう。ゆえに、常に我ら八葉が神子を守るのだ」

 

「その八葉も、俺を含めて七人……あと一人、どこかにいるってことか。――ははっ、なんか、なんとか戦隊みたいだな」

 

「八葉戦隊、ハチレンジャー?」

 

 馬上からのりえがそんなことを口にする。

 

「それじゃ兄さんは絶対、黄レンジャーだね」

 

 譲も会話に加わってきた。

 

「なんでだよ?」

 

「兄さん、カレー好きだろ」

 

「誰だって好きだろうが、カレーは! 第一、おまえの黄レンジャーのイメージ、古くねぇか? 今じゃ……っていうか、ここに来る前だけど――今じゃ、黄レンジャーは女がやってんだぞ」

 

「……なんでそんなこと知ってるんだよ、兄さん」

 

 ムキになって言い返す将臣を、譲は冷めた目で見返す。

 

「どーでもいいだろうが、んなこと」

 

「あたし、そしたら悪の幹部やりたいな~」

 

「おまえがそれ言うか!? どっちかっつーと、おまえは世界の平和を守るほうだろ!?

 

「先輩が悪の幹部でしたら、俺は参謀やります」

 

「っておい! 譲もボケんのか!?

 

「じゃあ~、手始めに幼稚園バス乗っ取ろうか!」

 

「つか、おまえも古すぎ! バス乗っ取りって何十年前の悪巧みだよ!?

 

「……将臣くん、さっきからうるさい!」

 

 突然始まった三人の現代話に、他の者はついていくことができず、ただ久しぶりに話し合う幼なじみたちの様子を見守っている。

 

 ちょうど広場のようなところに出たところで、

 

「では、手分けして宿を探しましょうか。蒼陽くんは僕と、紅夜くんは景時と、九郎はリズ先生と一緒に行ってください。将臣くんと譲くんと敦盛くんの三人は、のりえさんと朔殿、白龍の護衛をお願いしますね」

 

 弁慶が言い、組み分けどおりに四方に散っていく。

 

 のりえはHadesから降り、バッグからペットボトルを出して残りわずかだった水を全部飲み干した。

 

「のりえ、水足りるか? 足りなかったら汲んでくるぜ?」

 

 近くに共同の井戸がある。将臣は空になったペットボトルを受け取って、水を汲みに行った。

 

 どんっ。

 

「きゃっ……」

 

「おっ、すまないね」

 

 まわりを見まわしていた朔に男がぶつかってきた。

 

「いえ、すみません」

 

 ぼーっとしていた自分が悪い――そう思って朔は謝った。

 

 男は軽く会釈してその場を立ち去る。

 

「――譲くん、Hadesをお願い」

 

「えっ? 先輩……」

 

 言うが早いか、のりえはすぐに男の後を追っていた。

 

 男の足はだんだんと速くなる。

 

 見失わないよう、のりえも歩を速めた。

 

 頭に被っていたフードが外れ、外套の裾と黒い長い髪が潮風になびく。

 

 すれ違う人間が足を止め、彼女に振り返っていたが、のりえは気にも留めない。

 

 たんっ!

 

 男が走り出しそうな気配を感じ取ったのりえは地面を蹴り、宙を舞って男の前に出る。

 

 人間離れした跳躍力に、その場にいた者たちの注目が集まった。

 

「なっ、なんだよ……!」

 

 目の前に立ちはだかった、面で顔を半分隠した人間にびっくりして男はようやく立ち止まる。

 

「……こんな状況は時代劇の中でしかないと思っていたが、実際にあるものだな」

 

 赤い唇から発せられる声が低い。

 

「返せ」

 

 ずいっと右手を差し出し、のりえは言った。

 

「はっ……?」

 

「とぼけるな。朔から盗んだものを返せと言ったのだ」

 

「な、何を言っているんだ? おれは何も盗っちゃいないぜ?」

 

 両手を広げて見せる。

 

「おかしな面つけて言いがかりをつけるとは、そっちが物取りじゃねぇのか?」

 

「黙れ。我は〝返せ〟と言っているのだ。さっさと扇を返せ」

 

「――っ……」

 

 扇と言われて、明らかに男の表情が変わった。

 

 次第にまわりには野次馬が集まりだし、いつの間にか二人を中心に人型の円が作られていた。

 

「お、おい! 聞いてくれよ! この変な奴が連れの物を盗ったなんて言いがかりをつけるんだ! おれは何も盗っちゃいねぇのに!」

 

 ふいに野次馬たちに向かって訴える男。

 

 だが、次の瞬間――

 

「かはっ……!」

 

 男の両足は地面から離れていた。

 

 その場にいた全員が一瞬何が起こったのか、分からずにいた。

 

 たった一回のまばたきの間に面をつけた女が男との距離を詰め、左手で首をつかみ、身体を持ち上げていたのだ。

 

 のりえの身体の二倍はある男の身体を、細腕一本で支えている。

 

「よいか。我は同じことを三度言うつもりはない」

 

 太い首に爪が食い込む。

 

 呼吸ができなくて、男は必死にもがいた。

 

 すぐに腰につけていた巾着を示す。

 

 のりえはあいている右手でそれをむしりとり、男の身体を地面にほうった。

 

 鈍い音を立てて野次馬たちの足元に転がった男は人をかきわけ、ほうほうの体で逃げていく。

 

「これらはいらぬ」

 

 巾着の中から目当てのものを取り出して、残ったものを男に向かって投げつけた。

 

 するとそれは見事な弧を描き、男の脳天に落ちた。

 

「ぎゃっ」

 

 短い叫びをあげて、男は倒れた。

 

 中には別のところで盗んできたのか、財布がいくつかとかんざしが入っており、そのかんざしの尖ったところが男の頭に刺さったのだ。

 

 ピクリともしない男に筋骨隆々の屈強な男たち数人が駆け寄り、どこかへと引きずっていく。

 

「ヒュー♪」

 

 朔の扇に傷がないか調べていると、軽快な口笛とともに野次馬の中から一人の赤毛の少年が出てきた。

 

 動きやすそうな短い着物を着て、首元には赤珊瑚をあしらった銀の首飾り、耳には同じ素材で作られている羽根の形をした耳飾りをつけていた。

 

「あんたが噂の白龍の神子かい? 面をつけてもその下にある美貌は完全に隠すことはできないって本当だね」

 

 のりえを頭の先からつま先まで見つめる少年。

 

「しかも、華奢に見えてそこいらの男より強いってことも事実だった」

 

「…………」

 

 面越しにのりえは少年を見る。

 

 着物の袖からのぞく腕や脚の筋肉はしなやかで、普通の少年でないことは一目瞭然。

 

「初めまして、姫君」

 

 少年はのりえの右手を取って、その甲に口づけをしようとした。

 

 ばしんっ。

 

 唇が触れる直前、のりえは持っていた扇で少年の頬をひっぱたいていた。

 

「――我に気安く触るな」

 

「っ……これはこれは、姫君のお気に触ってしまったかな?」

 

 いきなり叩かれても少年は怒る気配はなく、口元には笑みさえ浮かんでいた。

 

 扇の角で切れたのか、次第に少年の右頬に赤い筋が浮かんでくる。

 

 それを目にしたのりえは、

 

「――っ!? あっ、あの……! ご、ごめんなさい!」

 

 人格が一瞬にして戻った。

 

 先ほどのぴりぴりとした雰囲気はなく、平身低頭に謝ってくる彼女の姿に少年は瞠目する。

 

「えっと、えっと、絆創膏……」

 

 ごそごそと懐をあさり、桜色の生地でできた小さな巾着を取り出した。

 

 中には九郎や弁慶から万が一というときのためにもらった銭がいくつかと絆創膏二枚が入っていた。

 

 そのうちの一枚を剥がし、少年の顔の傷に貼る。

 

「これはなんだい?」

 

 見慣れぬそれに戸惑うことはせず、不思議そうに訊いてくる。

 

「絆創膏って言って、傷の治りを早めてくれるものです。……本当にごめんなさい」

 

「ふふっ、もういいよ。そんなに何度も頭を下げないでくれるかい? 姫君の不興を買うようなまねをしたオレが悪いんだから」

 

 そして少年は何を思ったのか、のりえの腰に腕をまわし、ぐいっと身体を抱き寄せた。

 

「ちょっ……!」

 

「しー」

 

 抗議の声をあげる前に唇に人差し指が押し当てられた。

 

「……オレにその面の下の素顔を見せてくれるかい?」

 

 甘い声で囁き、頭の後ろで縛られている紐に手をかける。

 

「だめっ……だめ、だめ! お願い、取らないで!」

 

 悲鳴にも似た声をあげて、のりえは抵抗した。

 

 こんな観衆の真ん中で面を取れば、鬼の目が晒されてしまう。

 

 それを見た者たちはいったいどんな強行に出るのか。

 

 瞬時にして恐怖が全身を駆け巡った。

 

 声にならない悲鳴が響き、一帯が騒然となる。

 

「のりえ!」

 

「先輩っ、先輩!」

 

「神子!」

 

 遠くから将臣、譲、敦盛の声が聞こえ、黒馬のHadesが人混みをわけ、後ろから皆がこちらにやってくる。

 

「――っ、ヒノエ……」

 

 敦盛が少年の姿を見て、立ち止まった。

 

「よう、敦盛じゃねぇか――って、姫君?」

 

 ヒノエと呼ばれた少年の腕の中で、のりえの身体が崩れ落ちた。

 

 

 

 

 

 

「この鬼めが!」

 

「一人なら恐れることはない!」

 

「殺しちまえ!」

 

「そうだ、殺せ!」

 

「鬼なんか殺せ!!

 

 人々の怒りと恐怖に満ちた声が耳の奥をつんざく。

 

 両手を縄でかたく縛られ、数人の男たちによって広い道を引きずらされるのりえは、全身が土と滲み出た血で汚れていた。

 

 ――痛い! やめて!

 

 涙を流し、必死に懇願するも声は出なかった。

 

 ――あたしが何をしたって言うの!?

 

 ――こんなのはいや!

 

 ――お願い、やめて!

 

「鬼は生きている価値もねぇ!」

 

「鬼を殺せ!」

 

「殺しちまえ!」

 

 無数の石つぶてが投げられ、額や顔、手足に新しい傷を作る。

 

「おい、両足にこれを結べ!」

 

 広場のような拓けた場所に着いたとき、両手を縛っていた縄は地面に刺さった杭のようなものに固定され、両足が別々に縄で縛られた。

 

 ――何するの……!?

 

 涙で歪む視界の片隅には、古ぼけた荷台を引く二頭の牛の姿があった。

 

 刹那、彼女の頭の中にある拷問が浮かび上がった。

 

 ずいぶん前に読んだ小説の中にあった拷問――手足を丈夫な縄で縛りつけ、その先を荷台にくくり、牛や馬に引かせる無惨な方法。

 

 極限まで引っ張られた身体はまず骨が軋み、次に皮が切れ、肉がちぎれる。

 

 人間の身体は人間ではなくなり、ただの肉塊と化す。

 

 生きたまま四肢をちぎられる痛さは誰も想像することのできないもの。

 

 楽に死ぬことができないから、拷問にふさわしい方法なのだが、これは残虐極まりなかった。

 

 ――お願いっ、やめっ……やめてぇ!?

 

 縄の先を荷台にくくりつけ、男たちが牛の尻を叩く。

 

 それを合図に、二頭の牛は二方向へ歩き出した。

 

 地面に伏していた身体は次第に宙にあがり、無防備に足が開く。

 

 ――痛いっ、痛い!

 

 牛の引く力は容赦なくのりえの足を引っ張った。

 

 両足の付け根と固定された両手首、両肩の骨がぎしぎしといやな音を立てる。

 

 ――お願い、助けてぇ!

 

 ――誰かぁっ!!

 

「――――神子!」

 

 

 

 

 

 

 ぱしんっ。

 

 軽い力で頬を叩かれたのりえは、そこで意識を取り戻した。

 

 見開いた両目から熱い涙が零れ、滲んだ視界に映ったのはどこかの部屋だった。

 

「神子」

 

 真上からリズヴァーンの声がする。

 

 おそるおそる顔を上に向けると、青い瞳がのりえを見下ろしていた。

 

「せ……んせい……」

 

 呟きはどたばたとこちらに向かってくる複数の足音によって消されてしまう。

 

「――先輩!? どうしたんですか!? さっきの悲鳴は!?

 

 真っ先に飛び込んできたのは譲。その次に白龍、双子、朔、将臣、九郎、景時と続く。

 

「大事ない。悪夢を見ただけだ」

 

 茫然としているのりえの代わりにリズヴァーンが答えた。

 

「悪夢って……あの悲鳴がですか!?

 

「おい、尋常じゃない叫びだったぞ? なんかあったのか?」

 

「なん……でも、ない……」

 

 かすれた声で言い、のりえはゆっくりと身体を起こす。

 

 手足の付け根がひどく痛んだ気がした。

 

「なんでもないってことあるかよ。おまえ、ひどい顔してるぞ?」

 

 血の気がなく、まさに顔面蒼白。

 

 ただ、リズヴァーンに叩かれた左頬がかすかに赤い。

 

「本当に……なんでもない。……殺されるのなら……一瞬で殺されたいって……思っただけ」

 

 左眼を押さえ、身をかがめて呼吸を整える。

 

 丸まった背中に小さな手が当てられ、乱れた気をそうっと伸ばすように白龍が撫でてやる。

 

「神子……――私の神子に、あんなことはさせないから……」

 

「あんな、こと……」

 

「私と神子はつながっている……神子の見た夢が、私にも――――」

 

 見えたよ、という言葉が言い終らないうちに、細い腕が白龍の身体を抱き締めた。

 

「神子……?」

 

「お願い、白龍……お願い……楽に殺して……あんなのはいや……楽に殺して……」

 

「神子……」

 

 身体の震えが止まらない。

 

 目からあふれた涙が落ちて、白龍の着物を濡らした。

 

 そんな部屋の中の様子を、弁慶、敦盛、ヒノエは廊下の端で窺っていた。

 

「……ヒノエ、君のことですから、白龍の神子が鬼の目を持つ存在だってことは知っていたでしょう?」

 

「…………」

 

「物珍しさに惹かれて軽率な行動を起こした結果が、あれですよ」

 

 少し前、別の部屋で神子に関しての情報を弁慶と敦盛から聞かされていたヒノエは、物騒なことを口走る少女の姿を目の当たりにしてわずかに狼狽する。

 

 女の子は甘菓子のようにふわふわして、優しくとろけるように扱えば、いくらでも笑顔を見せてくれると思っていた。

 

 しかし――彼女は違った。

 

 思いどおりの笑顔は見られず、夢見心地を見せてあげようとしたのに、結果は散々だった。

 

 恐怖と古傷を抉り、与えたのは苦痛の感情。

 

 こんなはずではなかった。

 

「僕たちのような大人数でも泊めてくれる宿を紹介してくれたのはありがたいですが、それよりも先に、彼女に対して申し訳ないと思うのでしたら、君がのりえさんの八葉だということを自覚することのほうが重要ですよ?」

 

 そう言って後ろのヒノエに振り返った弁慶は彼の額を見た。

 

 そこには八葉の証である宝玉が埋め込まれていた。

 

 最後の八葉は彼だった。

 

 のりえがヒノエの腕の中で気を失った直後、胸元から緋色に光る宝玉が現れ、彼の額に吸い込まれたのだ。

 

「……それは、あんたが源氏の軍師という立場で、熊野別当の立場であるオレに言ってるのかい?」

 

「まさか。一個人としてですよ。敦盛くんも平家という立場ではなく、神子を守る八葉として君に言っているのです」

 

「ヒノエが抱えている事情は重々承知している。……それに、私のような者が無理を強いることはできない。だが、考えてみてくれ」

 

「……おまえがそこまで言うくらいだ。よっぽどあの神子姫が気に入ったんだな」

 

「いや、あの……そんなことを言っては神子に迷惑だろう。私はただ……神子に助けられたから……」

 

「とにかく、悪かったよ。あんたら、しばらく熊野にいるんだろう? その間に神子姫の機嫌なおしてみせるさ」

 

 踵を返し、廊下の端に消えていくヒノエ。

 

 その背中を見送りつつ、弁慶と敦盛は同時にため息をついた。

 

 

 

 

 

「――譲」

 

 夜も更け、明日に備えて皆が就寝準備に入っている中、将臣が譲を人気のない庭へと呼び出した。

 

 蝉のようなやかましい鳴き声はなく、小さな虫が奏でるかすかな音が庭に響いている。

 

「おまえなら聞いてんだろ? 鬼が嫌われる本当の理由。……あいつは何度ああいう目に遭った?」

 

 のりえから鬼がどういうものなのか聞いてはいたが、それがどうして不思議な力を持つだけで嫌われるのか、将臣には分からなかった。

 

「…………」

 

「譲」

 

「……先輩には、絶対に言うなよ。俺も口止めされている立場なんだから」

 

 そう前置きをして、譲は春に弁慶から聞かされた鬼の一族の話を将臣に聞かせた。

 

「はっ、馬鹿馬鹿しい。何百年前の遺恨をいまだ引きずってんのかよ。のりえやリズが何かしたってんなら、そいつらの報復は分かるが、何もしてねぇのに一方的に殺されるのは冗談じゃねぇ」

 

「兄さん、何度も言うけど、先輩には……」

 

「言わねぇよ。けど……」

 

 深い息を吐いて、将臣は縁側に腰を下ろした。

 

「あいつのあんな姿見て……正直、ショックを受けた」

 

「先輩はここに来てから、ずっと苦しんでる。兄さんが見た以上の何倍もね」

 

「……人種差別ってのは、どこの世界でもあるもんなんだな」

 

「人間が生きているかぎり、なくなることはない問題だ」

 

「ま、あいつも万人に好かれようなんざ思ってねぇだろ?」

 

「そりゃあ、まあ……」

 

「じゃ、やることは一つだな」

 

「……?」

 

「言葉はともかく、行動で何かしようって奴らは容赦なくボコるってこった」

 

 ぱんっと自分の膝を叩く。

 

「あー……まあ……うん」

 

 譲の歯切れが悪い。

 

「なんだよ、暴力反対か?」

 

「いや、そうじゃなくて……」

 

「なんだよ、はっきりしろ」

 

「…………。どうせ、いつかは目の当たりにするとは思うんだけど、先輩はここに来てから……」

 

 意を決して、譲はのりえの人格が変わることを話した。

 

「多重人格?」

 

「ああ」

 

 譲が実際に確認したのは四つあるうちの二つの人格。

 

「外見は先輩なのに、性格はまったく違う別人のような……。しかも、やたら好戦的になってしまうんだ」

 

「ふーん……」

 

 将臣はうなずいて、のりえたちの部屋がある方向に視線を向ける。

 

「……まあ、絶対にありえない話ってわけでもないよな」

 

「兄さん?」

 

「二重人格や多重人格ってのは、本来の人格が〝この体験をしているのは自分じゃない。別の誰かなんだ〟って思い込むことで作り上げちまう人格だろ。のりえだって、重圧に耐えられずに別の人格を作り出したのかもしれない。元の性格がああだから、反対の好戦的な――強い人格を思い浮かべたんだろ」

 

「…………」

 

 譲もその説を考えなかったわけではなかったが、なんとなく、口調や言動が変わってもあれはのりえ自身なのかもしれないという思いが離れなかった。

 

「まさか、おまえにかぎってあいつが多重人格だからってきら――」

 

「そんなわけないだろう!」

 

 ムキになって否定する譲。

 

 すぐに大きな声を出してしまったことに気づき、ごほんと咳払いをする。

 

 反対に将臣はくっくっくっと笑いをこらえていた。

 

「おまえののりえ好きも相当なもんだな」

 

「……兄さんが先輩をあきらめてくれたら、一生の感謝を捧げるよ」

 

「はっ、馬鹿言え。誰があきらめるかっつーんだ」

 

「どうだか。兄さんの酒飲み発言で、先輩は兄さんのこと、かなり幻滅しているからな」

 

「うっ……!」

 

「だいたい、兄さんがいくら酒に強いって言っても、先輩は酒を飲む人間そのものをきらってるんだ。ざるだろうが輪っかだろうが関係ない」

 

「へいへい。もう飲まねぇよ」

 

「あれ? 俺は別に飲むなとは言っていない。兄さんが飲みたければ飲めばいいじゃないか」

 

「飲んだらのりえにきらわれるだろうが」

 

「俺にとっては、そうなってもらったほうがありがたいんだけどな」

 

「譲、おまえな~……性格悪いぞ」

 

「なんとでも言えばいい。いくら兄弟とはいえ、遠慮する気はさらさらない」

 

「かぁ~、おまえいつの間にそんな憎らしくなったんだ? ちょっと前までは〝にいさん、にいさん〟って言って俺の後をくっついてまわってたのに」

 

「いったい何年前の話をしてるんだよ。……これだから老けた奴はうっとうしい。昔の話を持ち出して、あーだった、こーだった、って蒸し返して」

 

 ――がーん。

 

「老けっ……!? うっとうしい……!?

 

「そんな馬鹿話するんだったら、俺はもう休む。明日は早いんだ。寝坊したら、兄さんだけ置いていくからな」

 

 譲は吐き捨てるように言うと縁側に上がり、自分の割り当てられた部屋へ行ってしまった。

 

「老けた……老けた奴……」

 

 残された将臣は、譲の吐いた毒に心を傷つけられていた。